読書録2


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最近は内田樹の本を始めとして、いわゆる文系っぽい 本を読むことが多かった。

内田樹  レヴィナスと愛の現象学  他者と死者(他社と支社と変換された)  寝ながら学べる構造主義  こんな日本でよかったね  ためらいの倫理学  街場の現代思想  街場の文体論 遠藤周作  沈黙(長崎旅行に先立って) 筒井康隆  文学部唯野教授(街場の文体論で紹介されていて) カミュ  異邦人 佐々木俊尚  レイヤー化する世界

思考、言語、主体、自我、他者などなど。
何がどの順番で立ち上がってくるのかがまだ腑に落ちない。

感覚器官としての物理的な人体が環境から刺激を受けたときに、 言語を介さずに反応を生じる場合、そこには自我はいないと 考えて良いか。
例えば熱いものに触れたときに、皮膚から熱さを感じ取って 手を引っ込めるとき、「熱い」と考える主体は認識されない。
あるいは手を引っ込めた後に「今のは熱かった」という 言葉を思い浮かべる主体なら認識されるかもしれない。
何かの感覚を受け取った際に、それを言語化しないままに 享受する自我を認識することはできるだろうか。
(ボキャブラリー不足のために「なんかモワモワする」のようにしか 表現できないにしてもそれは既に言語化されている)

まず言語があり、しかるのちに自我が認識されるとなるとすると、 そもそもなぜ言語という概念が生まれたのか。

自意識を獲得してしまった現時点から見返すと、 まず自我、自意識、自分のようなものがあった上で、 それを自分以外のものにも敷衍して、他我、他なるものを 想定したときに、その間のコミュニケーションのために 言語が発達したと考えたくなる。

しかし、まず他者の認識がある。
内田樹の本を読んで理解した限りでは、 レヴィナスによれば他我と他者ははっきりと異なり、 他者との間には共通の度量衡が存在せず、「相手の身になる」 ということが原理的に不可能なもののことである。
人間が他の類人猿から離れた最初のきっかけが 葬礼の開始によるとして、そのときまず想定された最初の他者が 死者だったとすると、言語に先立って葬礼の儀式の行いが あったはずである。

その行いの中から言語にあたるものが生じてきて、 いわゆる他人とのコミュニケーションにも使用されるように なってきた後で、その言語を操る何かとして、当然そこにいるものとして 想定されたのが意識である、という順序なのかもしれない。
(葬礼の中から言語が生じるという考え方は、白川静の字学にも 通じるところがあるようで、字統字訓字通を買ってみた。)

以上が内田樹の本を読んでぼんやりと了解したことである。

伊藤計劃のハーモニーで出てきた、 「自意識を実装するのがある環境では必要だった」という概念。
「かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。」
という文章。
未だに好きである。