宗教


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宗教とは説明の集合体である。

「○○は××である。」
あるいは 「○○なのは××だからである。」
のような命題のコレクションであり、 すべて真であることが前提されていることに 特徴がある。

脳の容量が増えることで、人間のパターン認識能力は 爆発的に発達し、それは空間的にだけでなく 時間的にも拡がった。
時系列で生じる事柄について次の段階を予測できることは 生き残る上で有利に働くため、 「原因ー結果」という因果律を求めるのは自然だと考えられる。

因果律に対する希求が宗教を生むのも、 極めて妥当性が高いと思われる。
不明瞭な事象に対し、上手く説明される一連の命題を受け入れることは、 当人にとって生存を引き延ばす安堵感へとつながる。

中世に比べるとヨーロッパにおいて教会の権威が落ちているのも、 科学というより説明能力の高い思想体系が発達した影響が大きい。
日本でキリスト教が普及しないのも、日本に入ってきた当時、 既に日本流に解釈された仏教や神道、あるいは「お上」等が存在し、 それらに囲まれてある一定レベル以上の暮らしを営んでおり、 西洋でキリスト教が生まれた当時に比べて生存への不明瞭さが なかったからではないか。

「世界はどのようにして始まったか」というような不明瞭な事柄を 説明するために踏む段階の数を説明距離と呼ぶとすると、 説明距離の短さは宗教間の軋轢に繋がりやすい。
つまり、その事柄の説明があまりに短絡過ぎると、 他の解釈との相違が目立ち、対立に繋がると考えられる。

科学はおそらくこれまでに生まれたどんな宗教よりも説明距離が長い。
体系間の軋轢というのは説明距離の短い側から生まれることが多いため、 科学の側から既存の宗教を告発する事例というのはあまり聞かないが、 科学は静かに宗教の領域を侵食しつつある。
しかし、どんな説明もまた一つの解釈でしかないから、 科学が宗教を完全に駆逐するとは考えづらい。
それは、日本でキリスト教が普及しないのと同じ構図だ。

そもそも、自意識自体が無意識のうちに設定された、 不明瞭な事象に対する説明である可能性すらある。
この文章、「意識」が「無意識」のうちに設定される、という わかるようなわからないようなものになっているが、 つまり、意識が介在せずに行動している状態において、 判断基準は不明瞭であった。
本能的判断のみによって行動している段階では 原因と結果が十分に近く、判断基準の不明瞭さには 気付かなくとも生存が脅かされることがなかった。
それに対し、判断対象の領域が拡がるとともにその不明瞭さが 明瞭になっていき、いつしかそれに対する説明を受け入れること 抜きにはいられなくなった。
そのときに仮想された判断基準としての「意識」なるものが 脈々と受け継がれているのではないかということだ。

いつか意識に対する別の説明が現れたとき、 人間にはそれを受け入れるだけの強さがあるだろうか。