計算機と脳


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J.フォン・ノイマンの「計算機と脳」を読んだ。
惜しくも未完の遺稿となってしまい、短い冊子ではあるが、 興味深い考察である。

脳の能動素子は計算機のそれに比べて精度が落ち、 速度も遅いが、恐ろしく数が多い。
計算機は直列的なため、誤差が積もり、増幅されることに 備えて個々の素子に非常に高い精度が要求される。
ノイマンはこれを算術深度あるいは論理深度が大きい ことによる劣化と表現する。
一方、脳は並列的なため、そういった影響が小さい。
脳の素子の精度の低さは、情報を周期的なパルス列で 伝達するという方式のためなのだが、それは同時に 信頼性を生み出しており、深度を浅くすることで劣化を 防げるのであれば、信頼性を優先するのはとても 理にかなっている。

直列と並列ではそもそも互換性が完全ではなく、 直列→並列の変換の際には論理構造や処理手順の変更が、 並列→直列の変換の際には追加の記憶装置が、それぞれ 必要になるという指摘がある。
直列なプログラム+大規模な記憶装置でAIの実現を目指すのは 妥当な選択だろうか。記憶装置のリードとライトがボトルネックに なって破綻してしまわないかが気がかりだ。
ディープラーニングで制限付きボルツマンマシンを構成する際も、 層数を増やすのではなく、層毎のノード数をスケールアウトさせる方が 近道なのかもしれない。

ノイマンは神経系が二つの型の通信、つまり「論理」と「算術」に 分かれており、前者を言語、後者を数学に対応させる。
数学が、メイヤスーの言うところの祖先以前的な記述につながる のだとすれば、それは時間の要素が「論理」の側に集約されて いるからだろう(それとも、論理深度が時間を生んでいるのだろうか)。
神経系を流れるパルスにはそういった複数の型があるのだろうか。
もしないのであれば、上記のような場合分けは意味付けあるいは 理由付け以降に仮想されるものである。

余談だが、訳者あとがきにおいて、ノイマンの個性をできるだけ 残すように訳出したとあったのが、読んでいて少し実感できたのが よかった。訳者の言うように、確かに読みづらくはなってしまうのだが、 限られた時間の中で、ノイマンが少しでも発想を残そうとしてくれた ことが感じ取れて、とてもよい訳だと思える。

p.s.
「生態学的知覚システム」、「計算機と脳」ときて、神経系の最新の 知見を得たいと思い、「カンデル神経科学」を購入した。
さすがに中身を見ずに買うのも憚られる値段だったので、10年ぶり くらいに書籍部の医学書コーナーに立ち入った。
階段を3段くらい登らないといけないあたり、敷居の高さを感じさせる場所だ。