もうすぐ絶滅するという紙の書物について


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ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールの対談、 「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んだ。

いたずらに紙の書物を礼賛するわけでもなく、ただただ 二人の紙の書物への愛情にあふれた会話を聞いているようで、 まさに原題のとおり、「本から離れようったってそうはいかない」 と思わせてくれるような本であった。

問題は失われる集団的記憶ではないのです。問題はむしろ 現在の不安定さなんだと私は思います。
U.エーコ、J=C.カリエール「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」p.90

というエーコに対し、

流動的で変わりやすく、更新可能ではかない時代を生きている 私たちが、しだいに長生きになるのは逆説的だという話は すでにしました。
同p.91

と受けるカリエール。
長生きと情報量の拡大により、共時的にも通時的にも受け取る情報量が 増えているのは間違いない。
情報量の増加が理由付けから意味付けへの移行をもたらすのだとすれば、 人間が意識を保つには絶えず変わらなければならない。
結果として個々の秩序の存続時間が短くなり、不安定さを増すことは、 どんな種類の問題を引き起こすだろうか。
共時的な情報伝達においては、電子データの方が有利なのは確かだ。
電子書籍は、通時的な情報伝達をある程度切り捨てることでそれを獲得した。
しかし、存続時間の短い秩序が、それでも存在したことを通時的に伝達することに 意味があるのだとすれば、不安定な現代だからこそ生じた、紙の書物の役目も あると言えるだろうか。
これが、攻殻機動隊S.A.C.で笑い男が紙の書物を収集していた理由かもしれない。

肉体を喪失しても、思考はネットを巡り、個を特定したまま、その存在を 維持し続けられると?
攻殻機動隊S.A.C. 第26話 “公安9課、再び STAND ALONE COMPLEX”
記憶には―それが個人の記憶であれ、文化という集団の記憶であれ― 二つの働きがあります。一つはある種のデータを保存する働き、もう一つは (中略)無駄にかさばる情報を忘却の中に沈めこむという働きです。
同p.93

序文において、ジャン=フィリップ・ド・トナックが「文化とはすべてが 忘れ去られたのちになお残るものにほかならない」と述べているように、 常にある正義にフィルタリングされ、その正義すら忘れ去られた後で 発見されるものが文化になる。
本書では何回もこのフィルタリングの問題が取り上げられている。

我々は選択と単純化を繰り返しているのです。
同p.328

インターネットという大海に漕ぎ出すには一つの視点が必要である、 文化という仲介によらず自分自身の頭でフィルタリングしなければ ならなくなった、グローバリゼーションがもたらしたのは共有経験の 細分化である、という話はとても興味深い。
出回っている情報の真偽が確かめにくくなり、近い将来我々自身が 情報提供者になると指摘したことは、既に世界各地で発生している。

結局、自分が電子書籍にはなく、紙の本にはあると思っているものが 何であり、それが何故なのかは未だによくわかっていない。
ただ、訳者あとがきにおいて、訳者の工藤妙子さんが、電子書籍を

生涯固有の肉体を持つことのない書物 同p.454

と表現していたのは参考になった。
人間の場合、人体というセンサなくしては意識が存在しないと思っているし、 仮に意識だけを別の回路に移せたとしても、センサ特性の違いがあるため、 元の意識と同一視できるかには疑問が残るとも思っている。
書物もまた、印刷された本という身体があることで、紙やインクの質感、重量感、 匂い、かたさ、等の特性により、その本たる有り様を獲得するのだという、 漠然とした期待が、紙の書物へと向かわせるのかもしれない。

ともかくも、

誰かに忘れられたくないと思うなら、書かなければなりません。
同p.335
本棚は、必ずしも読んだ本やいつか読むつもりの本を入れておくもの ではありません。(中略)本棚に入れておくのは、読んでもいい本です。
あるいは、読んでもよかった本です。
同p.382

という巨匠の言葉を胸に、これからもまた紙の書物を買い、 こうして言葉を残していくのだろう。