動きすぎてはいけない


[tag: book]

千葉雅也「動きすぎてはいけない」を読んだ。

縮約、習慣化、観想という言葉は、抽象という言葉と概ね同じであり、ドゥルーズの 「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。
抽象には大きく分けて意味付けと理由付けの2つがあると考えている。
意味付けは、理由律を必要としない抽象である。
そこには同一性の基準が確かに存在するが、それは身体というセンサの特性として 埋め込まれており、特徴抽出のために用いられる。
身体には、その複製過程においてさまざまなエラー導入手法が実装されることで 固定化回避が図られており、それも含め、身体を維持するには意味付けが最も 「合理的」な方法だと考えられる。
理由付けは、抽象過程に理由律を取り入れることで、複製によらない身体への エラー導入による固定化回避を可能にした。
それが上手く機能することで出来上がるのが器官なき身体なのではないかと思う。

通時的には、再生産=生殖の系譜を切断しうる身体である。
千葉雅也「動きすぎてはいけない」p.212

と書かれているように、理由付けによって器官なき身体を獲得した意識は、 意味付けに基づく無意識では成し得なかった切断をも可能にする。

理由律において、理由の連鎖を登ってゴールに向かうことと、そのゴールが一つだと 信じることは別物であり、一つと仮定されたゴール=大文字の《理由》は、《欠如》や ファルス、神などと呼ばれた。
現働性=同一性は前者に、潜在性=差異は後者に対応するのだろう。
ゴールを一つに設定し、それを推し進めることがサディスティックな在り方だとすれば、 ゴールの複数性に気づき、強烈に推し進めることができずに宙づりになるのが マゾヒスティックな在り方になる。
サディスティックに振れれば、せっかく実装した固定化回避機構が機能しなくなるし、 マゾヒスティックに振れれば、そもそもの目標である判断不能の回避が達成できない。

その狭間において、動かなくてもいけないし、動きすぎてもいけない。
最近では、情報を過度に取り入れることで、半強制的にマゾヒスティックな状況を 見せつけられることの反動からか、他人を巻き込んでサディスティックに固定化を しようとする傾向がみられるような気がする。
「他人のマナーに寛容的でなくなった」みたいなこともその一種であり、動きすぎなのだ。
器官なき身体の在り方はとても微妙なバランスが必要で、難しい。

以下、もはやまとまらないので、考えたことを列挙。

近代科学はゴールを置くことを恐れ、できるだけ遠くへ遠くへと延期しつつあるが、 一つであると仮定している点では宗教と差はないように思われる。
古い近代がサディスティックに振れることでパラノと診断されたことの反動として、 スキゾな在り方としてのマゾヒスティックも追求されたが、どちらかに振れ過ぎるのは いずれにしても上手くいかないだろう。

理屈を付けることと理由を付けることの違いは、唯一のゴールが予め設定されているか 否かだと言えるが、理屈を付けることと意味付けの間には本質的な違いがあるだろうか。
そもそも、サディスティックに理屈を突き詰めるだけなら、判断基準は一つに収束し、 理由律を導入する意味はなくなる。意識は要らないのである。
だから、厳格で唯一にみえる判断基準を設定することは思考停止を伴う。

理由律のゴールの向こう側には、端的に理由が存在しない。
その向こう側を自然と呼ぶことができるだろうか。

愛がその対象の引き起こす結果の原因となる覚悟のことだとすれば、 愛により〈相互肯定による共−存在〉になることは、理由律の円環をつくることであり、 これをドゥルーズは永遠の円環、結婚指輪と呼ぶのだろうか。
婚礼の鏡の破壊は、理由律の棄却というよりは、理由が一つに定まらないこと=乱反射を もたらし、器官なき身体はそれを行えることにこそ本質があるはずだ。

思考の創造的な条件としての「超越論的愚かさ」は、ゴールの複数性によってもたらされる。
動物は「それ特有の形式」によって愚かな存在にならないように保護されているとされるが、 この「それ特有の形式」はセンサ特性由来の意味付けであり、人間以外の動物は 理由付けに手を出さないことで愚かさを免れている。
ドゥルーズの言う、動物的な愚かさとはなんだろうか。

矛盾は、個体による観測が有限であることによって生じる。
それは共時的に異なる個体間かもしれないし、通時的に同じ個体間かもしれない。
そもそも、無矛盾性が成立する範囲を個体とみなすべきなのかもしれない。
いずれにしても、矛盾は忌避すべきことではない。
無矛盾性を追い求めるとしたら、無限の観測から形成した判断機構あるいは サンプリング条件を同一にした判断機構同士においてであり、それはサディスティックな 基準の推し進め、愚かであることの終了、器官なき身体の喪失でしかないだろう。