理由欲


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宇宙論ではよく始まりが問題になるが、それは単に モデル化が破綻しているだけのように思われる。
しかし、どれだけモデル化が破綻していようとも、 始まりを設定することだけは、科学は避けなければ いけないように思う。
それは、科学が宗教へと堕することを意味するからだ。

実在には、時間も空間もないだろう。
それらはすべて、抽象によって見出される構造だからだ。
しかし、人間の無意識や意識が実在に触れることができず、 シミュレーションの世界に生きているのかというと、 そんなふうに仮定する必要はないと思う。
むしろ物理的身体や心理的身体は常に実在に接しており、 そのセンサによって、センサ特性に応じてそれを抽象している。

宇宙の始まりにむかって、あるいは宇宙の終わりに向かって 考察ができるのは、モデルを設定することでシミュレーションが 可能になるからである。
宇宙に対応する実在は、宇宙論に従って決定論的に振舞っている のではなく、観察によって得られる、抽象された実在の振る舞いと シミュレーションの結果の一致をもって、モデル化の妥当性を 判断し、徐々にモデルが精緻になっているだけに過ぎない。
シミュレーションが定義的に決定論的に振る舞うことをもって、 実在も決定論的に振る舞うとすることには論理的飛躍がある。

観察できない領域についてのモデル化の詳細は、観察できた領域との 整合性によってしか決められないため、結局どのようなモデルを 飲み込むと決めるかにしかならない。
観察できる範囲を拡げるために、顕微鏡や望遠鏡等の外部センサの 性能は日進月歩でよくなっているが、その改良に終わりはない。
終わりの設定は、神の設定に等しいのだ。

改良が続いているという事実は、新しい理由の供給を促すので、 理由不足を補うのには十分だろう。
物理的身体にとっての睡眠欲や食欲と同じように、心理的身体に とっての理由欲にも、一時的であれ何かしらが供給されていれば 身体の維持には困らないはずだ。