ゆとり教育
[tag:]
ゆとり教育の理念は正しかった 文科省が目指す21世紀型教育とゆとり教育の類似性
「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに 社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、 自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を 解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、 他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、 豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための 健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。
我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの 社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよく はぐくんでいくことが重要であると考えた。」
上記は、その後「ゆとり教育」と呼ばれることになる教育について、
1996年に中教審から出された答申のようだ。
この内容自体はとても優れているし、「正しい」という言葉を
避けるならば、「極めて妥当だ」と評価できる。
ゆとり教育の理想形は、灘で橋本武先生が行っていた「銀の匙」を
使った授業のようなものだろう。
問題設定が必ずしも一意的には定まらない対象に対して、
基準を設定し、問を立て、理由を組み立て、相手に説明し、理解を得る。
そして、設定した基準が絶対的なものでないことを知るからこそ、
時には譲歩することで、コンセンサスとしての判断が下せるようになる。
結局、教師は教師で文科省や中教審に対して受け身にとどまり、
保護者は保護者で学校に対して受け身にとどまったままでは、
ゆとり教育の理念は達成しようがなかったというだけだ。
次の世代の人間を、そういう人間ではなく、引用文に掲げたような人間に
育てるために、真っ先に変わろうとしなければならなかった前の世代の人間が、
案の定変われなかったことが最大の敗因だろう。
ある世代に新しい教育をすることの一番のネックは、その教育を受けなかった
前の世代だ。
21世紀型の人間に育てようとするのに、育てる側の人間が20世紀型のままで
よいわけがない。
教育なんていう行為が本当に存在するのかはわからないが、存在することを
信じてそれを行うからには、せめて己も変われるようでありたい。