家族的類似性


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トマス・シェリングの人種間隔離モデルで 前提されるような、何らかの観点で自分と近い 対象を選好する傾向自体はあってよいと思う。
それが何らかの差別に陥らないために、自分とは 遠い対象が存在することを認識することも大事だが、 それと同等以上に大事なのは、別の観点が存在し得る ことのように思う。

多くの人間が日常の生活において、家族、仕事、 趣味などのいろいろな領域で、観点を使い分け ながら上手くやっているように思うのだが、 いざポリコレやレプリゼンテーションの議論に なると、特定の観点で遠い対象についての話だけ 先行して、別の観点に対する考えが置き去りに なる感がある。
観点を固定したがるのは理由を欲する存在としての 人間の性向だろうか。

いろいろな集団の中でも、親子というのは特殊だ。
通常はある観点が先にあり、それからどの対象が 近いかという判断が行われることで集団が形成 されると思われるが、親子の場合には、東浩紀が 「偶然の子ども」と呼ぶように、観点の設定よりも 集団の形成が先立つ。
あるいはそれは、理由付けによらない観点が 設定されているためにそう見えるのかもしれない。
理由抜きに形成されることが、家族的類似性を もつ集団の条件の一つになるだろうか。

なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない なぜ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない 中島みゆき「糸」

オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」や 森博嗣のWシリーズのように、生物学や医学の発展に よって生物学的な親になる機会が減ったとき、 理由付けの代わりに意味付けに基づいた観点が、 家族的類似性をもつ集団を形成し、象徴的、文化的な 親になるために役に立つだろうか。
かつてそれを、物理的身体ベースの意味付けで 行おうとした集団は失敗したように思う。