マッハとニーチェ
[tag: book]
木田元「マッハとニーチェ」を読んだ。
村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」によれば、
啓蒙主義こそが自然科学を生み出した。
それは理性によって世界を部分に切り刻んでいく
ものであったが、その反発として十八世紀末から
十九世紀初頭に生まれたロマン主義が、
人間の小さな頭脳に与えられた理性ではとても摑み 切れない不可思議として受け入れる、という態度 村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」
「近代熱学論集」p.xii
とともに、熱学の発展をもたらしたことは、たしかに
「ホーリスティックな存在」としての人間を、可能な
限り部分化することなく捉えるのに大いに貢献した
ことだろう。
固定化からの脱出としての発散という点では、マッハと
ニーチェの二人も、このロマン主義の後継にあたるはず
であり、理解することが不可避的に含んでしまう部分化
を受け止めつつ、特定の部分化に固定化することから
何とか逃れようとしたのだと思われる。
マッハは、自我とは「比較的強固に連関しあっている 要素群」にすぎず、「暫定的概観のための実用的統一体」 とみなすべきだと主張している。
木田元「マッハとニーチェ」p.290
というマッハの自我観には共感できる。
感覚によって世界が生成されると言うときに、それを
受容する何かとして自我を想定するのは誤りであり、
自我もまた、抽象によって生成されるものである。
絶え間ない流れに、理由という杭が立てられる ことによってできたよどみ。
そのよどみのことを、心理的身体と呼んでいるの だろうか。
An At a NOA 2017-04-07 “よどみ”
「今、ここ、私」がすべて生成されるものなのだとしたら、
要素還元主義によって特定の判断基準を基にパーツを用意
するのは、時間と空間と自我を固定化することに他ならない。
ある判断基準に従ってゲシュタルト崩壊して得られたパーツ
からは、その判断基準に沿うような全体は再構成できても、
他にあり得た判断基準は消え去ってしまうように思う。