「ものづくり」の科学史
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橋本毅彦「「ものづくり」の科学史」を読んだ。
標準という考え方についてよくまとまっており、
とても面白い内容だった。
標準化に対する職人の反抗、標準と個性との
ジレンマといったものもまた、固定化と発散の
せめぎ合いである。
言語、文字、習慣、法律など、人間が集団活動を 営む際に、必然的につきまとうこのような集団の 成員間で規約された共通の規則、道具、概念、 言語などについて、ハリマンは標準化の起源を 見てとるのである。
橋本毅彦「「ものづくり」の科学史」p.178
というノーマン・ハリマン「標準と標準化」の考え方は、
集団と表裏一体に存在する正義が、標準という思想
そのものであることをよく表している。
標準化によって正義を共有することで通信が可能になり、
集団が維持される一方で、それは交換可能性を高め、
「これ」でなくてもよいという状態を作り出し、
集団の構成要素よりも集団そのものが強調された結果、
個性との対立を生み出す。
さらに、標準化によって固定化の側面が強調されて
しまうと、終いには集団を壊死させてしまう。
また標準化の硬直的な強制がもたらす別の問題点として、 技術的な進展を阻害したり、技術的な進歩と標準規格が そぐわなくなることが指摘される。
同p.193
バウシンガー効果で有名なヨハン・バウシンガーが
採用した、「議論は自由に行い、決議は拘束力を
もたないこと」という一見非効率的な手続きが、
つなぎ替え可能性という柔軟性によって上手く機能
し得るというのは、ことあるごとに思い出されて
よいだろう。
標準化というと、固定化につながるイメージが強いが、
第七章のコンテナの例のように、標準化によって可能に
なる発散というものもある。
それは、全く異なる集団であったもの同士の間に、
標準という共通の通信プロトコルが成立することで、
新しい集団が形成されることによる。
一つのレベルで標準化することが、別のレベルで 多様性を生み出す。
同p.228
これは、「事実によって」成立するデファクト・
スタンダードよりも、「法律によって」成立する
デジューレ・スタンダードによって起こりやすい
と言えるだろうか。
ただし、言語は典型的なデファクト・スタンダード
であるが、共通言語をもつことによって、会話や
詩といったものが成立することを思うと、あらゆる
標準化が別のレベルでの発散可能性を秘めている
ようにも思われる。
デファクトもデジューレも、あらゆる標準化には
歴史的経緯が考慮されるため、最適になるとは
限らず、あるときには最適だったとしても、
いつの間にか最適でなくなることもある。
標準は経路依存によって決まってくる、すなわち 歴史を背負って姿を現してくるのである。
同p.255
また、標準化は集団を形成するため、少なくない
個性の犠牲の上に成り立っているが、著者も指摘
するように、個性の礼賛になってしまっては、
逆に集団が瓦解する。
標準と個性の対立を指摘し、個性を強調することは、 標準化による利便性を過小評価することになりかねない。
同p.262
結局のところ、ここでもまた固定化と発散の
どちらに振れてもいけないという話に戻って
くるのだが、標準化もまた生命あるいは人間の
行いなのだから、そういうものなのだろう。
現代のグローバル化された世界で、グローバル・ スタンダードに合わせる努力は必要である。
だがそれとともに単純に設定された標準では カバーしきれない個性や地域性が出てきてしまう ことにも配慮がなされるべきだろう。
同p.263
というのは、人によっては物足りないかもしれないが、
バランスのよいまとめ方だと思う。