variationとdiversity


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variationとdiversityの違いについてざっと調べてみると、 variationは同一カテゴリ内での違いに対して用いられ、 diversityはカテゴリ間もまたいだ違いに対して用いられる ことが多いようだ。
variationを有するもの同士は、そもそもあるカテゴリに 分類されるだけの類似性をもつので、diversityを有する もの同士に比べると違いは小さめな傾向にある。
音楽で言えばvariationは変奏曲のことだから、主題に 相当する何らかの基準を共有することが想定される。

diversityは「多様性」で人口に膾炙した感があるので、 variationには「変様性」あたりの訳語を当てた方が よい気もするが、「変様」だと哲学的にはmodification のことになるのか。
まあでも「多様体」だって数学的にはmanifoldだし。
「多様」に対する「一様」と「変様」に対する「同様」。
「皆一様に驚いている」と「皆同様に驚いている」では、 前者が「いろいろな反応があり得る中で、驚いている点 では一致していること」を言っており、後者は「驚いて いることは前提した上で、驚き方が一致していること」を 言うという違いがあるように思うのは気のせいだろうか。
「多様に驚く」ことはできないのに対し、「一様にかつ 変様に驚く」ことはできるのではないかということだ。

そう言えば、人種、宗教、性的嗜好の「多様性」を、 variationではなくdiversityとして捉えるのはつまり、 それぞれは違うカテゴリだとみなした上で、異なる カテゴリを許容しようという態度になるということか。
divideやindividualと同じように、古代ギリシャ語δίςに 由来する「二つに分ける」思想の延長上にあるという 意味では、とても西洋的というか、部分に分けて考える 傾向にあるのだなということを感じる。

どことなく、仲間に入れることを、英語では「join」、 日本語では「混ぜる」と表現する話を彷彿とさせる。
あれは「すべてがFになる」だったか。

「日本では、一緒に遊ぶとき、混ぜてくれって言いますよね」
犀川は突然話し出した。
「混ぜるという動詞は、英語ではミックスです。これは、 もともと液体を一緒にするときの言葉です。外国、特に 欧米では、人間は、仲間に入れてほしいとき、ジョイン するんです。混ざるのではなくて、つながるだけ……。
つまり、日本は、液体の社会で、欧米は固体の社会なんですよ。
日本人って、個人がリキッドなのです。流動的で、渾然一体に なりたいという欲求を社会本能的に持っている。欧米では、 個人はソリッドだから、けっして混ざりません。どんなに 集まっても、必ずパーツとして独立している……。ちょうど、 土壁の日本建築と、煉瓦の西洋建築のようです」 森博嗣「すべてがFになる」p.430

もしかすると、日本人はdiversityではなくvariation として「多様性」を捉えた方がすんなり受け入れられる のかもしれない。
(この発想が既に英語圏と日本語圏というdiversity的な ものになっているだろうか)