都市と野生の思考


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鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」を読んだ。

生命という秩序が更新し続けるためには、何かしらの仕組みで つねにエラーを導入する必要がある。

意味付けによる物理的身体は生殖や発生の過程でエラーを導入し、 理由付けによる器官なき身体は理由の連鎖の過程でエラーを導入する。
An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖

エラーが混入され得ない秩序は、死んでいるのと同じだ。

安定性は多様性が担保してくれるのです。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.14
成熟した社会というのは、熟れて腐乱状態にあると同時に、 未熟さを深く宿している社会でもある 同p.44

固定化しようとする秩序に対してエラー導入という発散の 契機が存在し、発散する度に秩序の判断基準が更新される ことで、動的平衡は安定する。

共通の対立点があるからこそ相手とつながり、意見の 衝突を通じて深い絆が育まれる。
同p.26

判断基準の更新可能性がより大きい点で、ディベートよりも ダイアログの方が、生命的な秩序に繋がりやすいだろう。

人間のセンサは、堅実的な物理的身体と投機的な心理的身体 という、判断基準の更新の仕方の異なる二つの抽象過程が 重なり合ったものだと思う。
他の動植物やロボット、人工知能など、他の抽象過程と比べて 特徴的なのは、投機的短絡が生じる心理的身体の影響が大きい 点であり、それを精神のネオテニー化と呼ぶのだろう。
そこに、道具として外部化された抽象過程も加えることで、 人間同士のコミュニケーションが成立する。

人間のコミュニケーションは本来、生物学的な感性と 文化的な感性、それと科学技術が渾然一体となって 行われるものです。
同p.30

心理的身体が投機的短絡によって生み出す新しい秩序は、 突拍子もない飛躍、逸脱によって無意味を理由付け、 物理的身体には不可能なまでに圧倒的な速度での変化を 可能にする。

文化とは「逸脱」、もしくは「倒錯」の現象 同p.91
人類の文化はそういう意味で遠大な無意味、ないしは不条理を 糧にしているのかもしれませんね。
同p.214

理由付けは時間やエントロピーを設定する順序付けであり、 物語、フィクションとして共有されることで、家族、特に 父親、食、性、ファッションなど、人間特有の文化を多く 生み出すと同時に、過度な発散を防ぐ機構としての禁止や 制度としても機能してきた。

死ぬというのは、時間、世代などの順序がすべてチャラに なることです。
同p.63
〈自然〉と〈制度〉が深く交錯する場所、それが家族なんですね。
同p.91

個々の理由付けはpossesion(所有、憑依)へと繋がる。
近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全 に陥った状態では抽象過程は機能しない。

物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、 抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と 責任の在り方もまた、それを反映する。

independenceではなくinterdependence、すなわち相互依存の ネットワークを必要に応じて使えることこそが「自由」であり、 不安を取り除いて安心につながるということです。
同p.141
責任とは本来、他者との関係性の中で捉えるべき概念ですからね 同p.141
人と人とが共有する判断基準が固定化していない ことが自由であり、その都度の判断基準の決定に 対して責任が生まれる。
An At a NOA 2017-11-09 “自由の相手

鷲田清一が指摘するように、生物学的な感性、文化的な感性、 科学技術は互いに影響し合いながら変化していくと思われる。

結局、人間の知的能力やセンサーは、それまで担っていた責務を 外されると、また新たな能力として使われるようになる。
鷲田清一、山極寿一「都市と野生の思考」p.210

それは、発散による瓦解を防ぐホメオスタシスであり、固定化 による壊死を防ぐ機構と同じように重要になる。

更新される秩序としての生は、 更新の不在によって死に至り、 秩序の不在によって解かれる。
An At a NOA 2017-08-11 “壊死と瓦解

祭りや習慣のように、理屈抜きに設定される禁止や制度によって 支えられる心理的身体のホメオスタシスもまた、技術とともに 変わっていくはずだ。

都市と野生のどちらか一方が固定化し、他方が発散しているという ことではなく、都市には都市の、野生には野生の固定化と発散があり、 どちらも壊死と瓦解の狭間で維持されていく。
その更新過程において、「何をどこまで変えないか」は、人間とは何か という問いに繋がるだろう。