資本主義リアリズム


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マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」を読んだ。

資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、 あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した 資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつく ことで、「この道しかない」ものになる。
そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗 するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と 官僚主義に着目する。

精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・ 生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が 個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義 的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因と なるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。

規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや 神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっている にも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようと してしまう。
原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を 巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、 抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが 強化される。

そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、 その存在を断定せずにはいられない。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.164

この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。
それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。
もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、 意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。

例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、 表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの 陥りに対する有効な手段になるだろうか。

行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、 その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、 「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが 何度も繰り返し到来するだけである。
「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、 その状況を脱却する方法はあるだろうか。