Child's days memory


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浜辺の遅い午後。時刻は15時半から16時ほど。日中の刺々しい日射が次第に丸みを帯びてきたという情報が、先ずは皮膚を通して伝わり始めている。眼がそのことに気付くのは、もうしばらく先のことだ。
既に波打ち際とは距離をとり、時代遅れのカラフルなパラソルの下に腰掛けながら、視線は漠然と海に向かっている。そこは、ついさっきまで遊んでいたけれど、戻るのが億劫になってしまった場所。今はもう、遠くから眺めるのが精一杯になってしまった場所だ。
視線の中の人や波や雲の動きに合わせて、そこに自分がいると仮定した場合のシミュレーションが走る。シミュレーション結果には、日中に身体が蓄積したデータに由来する偏りが不可避的に混入するため、結果自体を万人に敷衍するのは難しいだろう。しかし、手法としては敷衍可能かもしれない。グローバルな手法のローカルな適用。データセットと切り離せない深層学習結果。その結果として現れる偏りこそ、記憶と呼ぶべきものだろう。そして、解消不能な偏りが全身を覆っていくというのが、大人になることの一側面なのだろう。云々。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか太陽が沈み始めている。「沈む」というのは、地球平面説的で天動説的な表現な気がしなくもないが、それが一番しっくりくるくらいには、この二つの近似モデルは直観的だ。一次的と表現してもよい。太陽とともに、浜辺からも人影が姿を消した黄昏の中で、思考はぐるぐると回りながら、一つの偏りへの収束を束の間免れている。