なぜ働いていると本が読めなくなるのか


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三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。

ゲンロンのイベントに三宅さんが登壇するということで、漠然と食わず嫌いをしていた本書に手を伸ばした。

明治期から現代までの労働と読書の関係の変遷を整理した上で、現代の労働におけるトピックである「仕事における自己実現」を成し遂げるには、自分に関係のある文脈のみを活かして行動を変革する必要があり、「ノイズ=自分から遠く離れた文脈」を含む読書が敬遠されるという構図が示される。しかし、本来は世界はノイズに溢れているわけで、単一の文脈にフルコミットするのではなく、読書でノイズに触れることを通じて様々な文脈にコミットできる「半身労働社会」が提唱される。

論旨は明快で同意できるが、図表や箇条書きでクリアカットな整理が示されたり、あとがきで働きながら読書するコツが示されたりと、後半に行くほどハウツー本や「わかりやすい○○」的なライトさを帯びていく印象があり、この本もまた自己啓発的なノイズのない「情報」なのではと思ってしまう。ただ、各人にとっての個々の本は、様々な文脈に触れるきっかけの一つに過ぎないと思えば、一つひとつはこれくらいライトなもので十分ということなのかもしれない。

出版→文フリ、テレビ→YouTube、新聞→SNS、AV→Fantia、専業→フリーランスなど、ツールの民主化やプラットフォームの整備によって多くの分野でB2CよりもC2Cに近い形態が増える「同人化」が進行している。発信側の数が増えることは、受信者=観客側としては文脈が多様化するというメリットがあるが、受信者=観客の動向に応じてバズだけを目指す「機を見るに敏」な発信者が増えると、個々の文脈の通時的・共時的な共有性は損なわれる可能性がある。論文における関連研究の引用、ニュースにおける裏取りなど、少数の発信者(専門家)が培ってきた文脈の維持コストを無視したフリーライダーが蔓延るようになると、文化は全体としてやせ細っていくように思う。これは東浩紀が『観光客の哲学』で言っていた、「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ」というメッセージに通ずる。

特定の文脈に拘泥することを終わりにしようというメッセージは、受信者=観客目線では首肯できる。しかし、全員が特定の文脈にフルコミットしない半身労働社会において、従来は専門家が維持してきた個々の文脈はどのように維持されるのだろうか。オープンソースソフトウェアにおいて、イシューばかり挙げてコミットしないユーザだけでは、ソフトウェアはメンテされなくなる。コントリビュータはいなくならないか。あるいは各自が勝手にコントリビュートしたいがために数多のフォークが生まれて文脈が空中分解しないだろうか。

単一の文脈へのフルコミットから解放された社会において、多様な文脈を耕す「親」は残るだろうか。それが三宅さんに対する松田さんや森脇さんの、疑念と期待が入り混じったアンビヴァレンスなのではないかと思った。親と子、客と裏方、コントリビュータとユーザの行ったり来たりをするために、両方の話をしたい。