どこでもドアの幻影


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2011-12-13以来、再び居場所について。

あれから3年程経ったが、震災の影響で東京への一極集中が 和らぐといった傾向はほとんどみられない。

要するに、人と直接会うこと自体の価値に対する信仰は まだまだ隆盛なのである。
いや、その信仰自体が薄れることはおそらくないだろう。
震災後の騒ぎなど目じゃないほどのエネルギー危機が 訪れたときに、止むを得ず諦めるというかたちで 人と会う機会は失われていくのかもしれない。

Skypeのような映像付き会話システムとは比にならないくらい、 直接会っているのに近いコミュニケーション技術の開発が、 今以上に求められ、活発化するのだと思う。
例えば、一枚の紙面を共有して、その上にお互いが描いた スケッチがリアルタイムに共有されるシステムは、 ある業種の打合せにとっては相手の顔が見えている以上に 意味のあることだったりする(既にそういうものはあるだろうが)。

より速く、より細かいネットワークが構築されるほど、 人は分散できるはずなのに、未だに東京に集中している。
2020年のオリンピックに向けて一段とその流れは進むだろう。

リニアモーターカーの開発が2027年開業を目標に進んでいるが、 移動の高速化を追求する技術は結局のところ人同士が直接会う必要性を 前提としており、東京への一極集中と発想の本質は同じである。

地方への移動がなかなか進まないのは、結局これが後だしじゃんけんだから なのではないだろうか。
もはや直接会わなくてもたいていの仕事は成り立ち、徒歩あるいは自転車で 移動できる圏内で生活が完結できるという実感を、ある程度の大多数が 共有した状態でないと、先に分散した人間がわりを食う格好になってしまう。
(食っているわりも、後から振り返るとおそらく大したものではないのだが、 それを大したものだと錯覚させるほど、信仰は強い)

一極集中が過度に進行し、エネルギー的な限界を迎えたとき、 超新星爆発のように東京への一極集中は解消されるのかもしれない。
その先には、日本各地の人口密度が概ね一様になり、 各々がその土地で完結した生活を営みながら、今とは少し違ったかたちで 今以上に身近なコミュニケーションがとれる、 不気味に穏やかな世界が待っているのだろう。

どこでもドアは、物理的にではなく、精神的に実装される。

今日、柏の葉キャンパス駅に5年ぶりくらいに降り立ち、 そんな思いを抱いた。