魔法の色を知っているか?


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「魔法の色を知っているか?」を読み終えた。
前作 彼女は一人で歩くのか?

ストーリィは相変わらず程よい未来感をたたえている。
特に、ラジオ等の旧来の技術のはさみ方が抜群である。
この辺りは著者の趣味的な部分が多いに活躍しているのだろう。
新しい方の技術にしても、エンジニア的な視点をもっているというか、 なんとなく有り得そうな説明に感じられるのは自分も エンジニアだからだろうか。

個人的にはやはりハギリとヴォッシュの両博士の間で 交わされる議論が面白いと思う。

スーパ・サーバ・システムに関する一悶着のくだりで ヴォッシュが語る、無機の正義のようなものを構築して それを人類に課してくるという抽象的な説明は、 つまり現状で言うところの倫理観の押し付けである。
倫理とはある集合にとっての正義のことであり、 今の時代で言えば人類にとっての正義である。
人工知能が発達することで、人工知能にとっての倫理を 構築するとしたら、それはまさにここで言うところの 無機の正義であるし、今人類がやっているのと同じように、 自分たち以外にもその正義を押し付けることになるだろう。
だから、「スパコンには論理的判断はできても倫理的判断は できないのか」というかつての問に対する答えとしては、 「コンピュータが自律的に思考するようになった場合、 自らにとっての正義は獲得しうるだろう。ただし、それが 人類のものと一致するかはわからない。その意味で、 倫理的判断は人類の思うようにはできないだろうと予想される。」 のようなものになる。

頭脳細胞が新しくても老化がありえる、ハードではなくソフト、 あるいはデータの問題だ、というのはつまり、 最適化を免れられない仕組みになっているということか。
できるだけ計算せずに短絡させられるところは短絡する。
それが判断の高速化を助け、生き延びることにつながるし、 痴呆、習慣、常識、宗教等様々なものの原因になっている。

真賀田四季がプログラムを埋め込んでいるという展開は すべてがFになると同じ仕組みである。
あの時は真賀田四季が外に出るための装置だった。
このプログラムの内容によっては人類はすでに檻の中だ。
いや、檻の中にいるのですらなく、真賀田四季の シミュレーションの中のデータの一つになったのかもしれない。
ナクチュというのは現代社会の縮小モデルであるし、真賀田四季は神である。
宗教を捨て、ナクチュ以外の部分を内側にしてしまった時点で、 人類の側がある意味で負けてしまったのだろう。

マービン・ミンスキーがなくなったようなので、 心の社会を読もうと思う。