部分


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自然が意識の不在であり、意識が理由付けによって 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして 感じられるのは、そこに理由がないからである。
こういった解釈自体が理由付けになっているため、 この説を正当化する術もないが。

理屈抜きに美しいあるいは心地良いものがまず存在する。
そこに理由を付け足すことで咀嚼し、分解することで 理解することは可能である。
しかし、逆に、そういった理屈や理論を基に組み立てて できあがったものが美しく心地良いものになることはない。

理由とは全体を部分に分けるための行為であり、 部分を全体になすための行為ではない。

抽象もまた、構造という、異なる事象間の共通部分を抜き出す 行為であるから、全体を切り刻んでいく側である。

果たして全体を所与のものとして受け取る以外に、 創り出すことは可能だろうか。
もしかすると、儀式のような形式の伝承がそれにあたるのかもしれない。
形式は決まり事の連続である。その決まり事を、理屈を理解することよりも 伝承すること自体を最優先事項とし、代々受け継ぐことで少しずつ 変容しながら伝わっていく。
そうして得られるものは全体になりうるのかもしれない。

近代科学の態度はすべてに理由を付けることを究極の理想としている。
それにより、あらゆるものは部分に分けられ、全体はその組み合わせで 成立するものと仮定される。
一般人の生活にもその思想は既に浸透しており、現代ではもはや あらゆる場面で個が優位を占めているように思われる。
それは都会に近づけば近づくほど顕著だ。

この三連休、山形に赴き、ここで育った方々にたくさん出会った。
地域振興をしている青年、小国の金目マタギ、旧尾形家住宅の子孫、 かみのやま温泉下大湯に通って40年のおじいさん、田麦俣の名も無きおじいさん、 注連寺の和尚さん、酒田の一家、銀山温泉のかじか湯で一緒になったおじさん、 尾花沢牛ラーメンを食べた柏屋の店員さん、西川町役場の方々、 西川町猟友会のハンターの皆さん、大井沢の民宿を営む夫婦。
この旅でお会いした方々は、それぞれがそれぞれの全体を受け継いでおり、 その量はおそらく都会の人間よりも多いと思われる。
全体は一度失われると再構成するのに長い時間がかかるのだ。
近代科学の徒である現代人は、おそらくそれに気付いていない。
気付いていないというよりも、部分を集積することが全体だと信じている。

全体の中には数多くの部分が見い出せる。それは人間の叡智の勝利だ。
しかし、見出した部分をかき集めても全体にはならず、部分の掃き溜めに しかならないことには注意すべきだ。
理屈で語られた全体には、恍惚を感じることなど不可能である。