共有されない知覚


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ASIMOが演じる手話への違和感についての話を読んだ。
その違和感は、ある点では、日本の電車内において携帯電話での 通話が原則的に禁止されていることと通ずるものがあると思う。

手話による視覚的な、あるいは会話による視覚的、聴覚的な情報伝達は、 本来は知覚の共有を目的として行われるため、二つ以上のセンサが やりとりすることを前提とする。
上記のできごとに共通しているのは、その受け取り手が明示的には 同時的、同地的に存在していない点である。

今の世の中、同時性や同地性はいくらでも改竄できるので、 それが明示的な方法で担保されていなくても、知覚の共有は可能になっている。
携帯電話では、(おそらくバンドパス等でフィルタされた)聴覚情報の 一部だけしか伝わらないものの、当人同士だけが改竄された同地性の中で知覚の 共有を行っている。テレビ電話も普及はしているから、視覚情報を共有するケースもある。
ASIMOの場合はかなり遠回りではあるものの、例えば映像で見た人間が 科学未来館にフィードバックを寄せるというようなかたちで、技術的には その手話を利用した知覚の共有が可能だ。

それを周囲から観察したときに覚える違和感というのは、知覚の共有を 行えていないという疑念に近いものではないかと思う。
そして、おそらくだが、近代はそれを精神病と呼び始めたのだろう。
コンセンサス=知覚の共有が意識あるいは社会等のことなのだとすれば、 これはある意味で防衛である。

他にも、宇宙との交信、人形への話しかけ等に対する感覚も近いものかもしれない。
こういったことを年少のものが行うことに対しては、「まだ未発達であるから」という 理由付けを施すことで違和感を回避できるが、ある程度の年齢に達した人間が 行っているのを見た場合には、上記と同様の違和感が生じるのではないかと思う。

昨今、端末への音声入力が発達し、利用する人も増えているが、 街中でボタン操作をしていた人間が全員音声入力をするようになったとき、 人間はそれに耐えられるだろうか。
おそらく耐えられないのは旧来の人間だけで、新世代の人間はそこに意味付けを 行うことで慣れていくだろう。
どちらも無意味に耐えられないところは相変わらずだ。

でも、よくよく考えると、明示的に共有されている様を感じて安心したいというのは、 人間がそれぞれ独立したものだという認識が前提としてあるので、個人という 近代的な人間像に浸っているせいなのかもしれない。