シン・ゴジラ


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「シン・ゴジラ」を観た。
今日、改めてもう一度、震災後を生きた気がする。

途中、何度も泣いてしまうのだが、理由が言葉にならない。
悲しみ、怒り、焦り、無力感、悔しさ、やり切れなさ、畏敬の念。
津波が土手を越え、車を飲み込む。
原子炉建屋にヘリコプターから水を落とす。
コンクリートポンプ車による放水。
復興に携わる自衛隊やボランティアの方々の姿。
政治家や官僚が未曾有の事態に対応する姿。
そういった、東日本大震災の津波や原発、記者会見の映像、 あるいは震災1ヶ月後に目の当たりにした釜石の風景から 感じ取ったあらゆる感情が短時間の間にこみ上げてくる。
この感情を受け止めるために、泣かざるを得ない。

本来、第四の壁越しに見ることは、私からの乖離と、第四の壁の 向こうへの感情移入を促すことで感情を動かす。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で あることを強化する。
それによって人は、各々の物語によって泣く。
この手法をノンフィクションと呼ぶのであれば、「シン・ゴジラ」が 私に提示したものはまさしくノンフィクションであった。

ゴジラは、象徴的には原子力発電そのものとして捉えられる。
牧の残した、私は好きにした君も好きにしろ、というメッセージは、 1950年代に進められた原子力発電政策の結果、現代では それが一般的になり、恩恵をもたらすと同時に脅威にもなり得る ものにまで成長したことと符合する。
しかし、それは単に原子力発電だけでなく、それをとりまく 社会、経済、文化等の諸々の巨大化及び脅威化も含めて 象徴しているはずだし、だからこそ、ゴジラのエネルギー源が 核廃棄物ではなく、水と空気だけで生きられるという事実や、 凍結はさせたものの、それが再び動き出した時には時間の猶予は 僅かしかなく、熱核攻撃による殲滅という未来が待っているという エンディングが効いてくると思う。
原子力発電の問題と同様に、社会、経済、文化の肥大化の問題も、 今のやり方をやめればそのうち消えてなくなるようなものではなく、 少ない時間的猶予の中で、一度立ち止まってでも議論をした方が よいのでは、ということだと受け取った。

かたや死をもたらす官僚体制として、かたや生を永らえさせる外交や人脈として 描かれる巨大なネットワークも、ヤシオリ作戦によって凍結された問題の一つだ。
生まれ変わりではなく、単一の個体での進化が可能になったゴジラは、 物理的な戦争から経済的あるいは情報的な戦争に移ることで、物理的な領地や 国民の拡大だけではないかたちで、さらなる巨大化を遂げてきた国家でもある。

演出手法の観点では、場面転換で望遠レンズのカットを連続して 入れたりする箇所等、エヴァっぽい雰囲気は確かに強いが、 それよりも印象に残ったのは、群衆のリアリティだ。
記号的な恐怖よりも、スマートフォンをいじる姿や、twitterやニコ動のような 演出の方が、恐怖への現代的な反応としてはリアリティが強い。
あるいはそれは、記号が変容しただけなのかもしれないが。

とにかく、世界で唯一原爆を落とされた敗戦国に生まれ、そこで教育を受け、 2011年3月以降をそこで生きた人間にとっては、あまりにもリアリティが あり過ぎ、それがとても堪える内容ではある。
だが、これを劇場のスクリーンという巨大な第四の壁越しに見ることで、 自分自身の追体験という貴重な体験ができるという点で、この映画は最高であった。

2016-08-08 追記
この映画を観て流した涙は、5年前流れなかった涙の代わりなのかもしれない。
政府の対応にいらつき、ACジャパンのCMにうんざりし、ボランティアの活動に 感銘を受け、基礎構造だけが残る元市街地に呆然とする。
震災後は日本中がただただ落ち着きがなく、泣く暇もないままに1年、また1年と過ぎ、 もう5年半が経とうとしている。この5年半という時間を巻き戻し、2時間あまりで 急速に再生することで、もう一度落ち着いて泣く機会をもらったような感覚だ。
この感覚を共有できる人間は、理屈抜きに「シン・ゴジラ」を傑作だと 評価するだろうし、そうでなければ分析的に評価するか、いまいちだと 切り捨てるかだ。
その意味で、この映画が震災を同時代として経験しなかった世代や海外の人間にも 評価されるのかはよくわからない。初代ゴジラのように、分析的に語られることで 評価を受けられたとしても、それは2016年の夏に、震災の5年後として、震災を リアルタイムに自国のものとして経験した人間として観ることとは、やはり別な ものになってしまう気がしてならない。