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みんなで一つの夢をみたいという欲望が存在する。

それは、文字通り寝ている間にみる夢に限らず、 一般的に同じ正義を共有するということ自体が そういった欲望の現れだと言え、それは可能な限り 大きな集団を形成したいという欲求と同値である。
世界が平和になり、人類皆兄弟という世界観もまた この一種であるから、やはり平和というのは正義が 一意的に決まる状態のことを指すのかもしれない。

VRは視覚的に先行することで、まずは見ることから この目的を達成しようとしている。
現実とは異なる情報に対して、同一の意味付け、 理由付けを施した映像を共有することで、多人数で 一つの夢をみることを可能にする。
同地性や同時性の制限を解消するために、参加者の 行動はある程度制限される。
同時性の方がその傾向は強くなるだろう。
現実においては同時に観測されないものを、同時な ものとして仮想するには行動がかなりの程度に方向 付けられる必要があるはずだ。
それを如何にして参加者に気付かせずに行えるだろうか。

こういった先端技術に限らず、芸術や宗教、科学等にも、 唯一つの見方を提供するタイプのものは多い。
理由付けによってそれを維持している間はまだ過渡期であり、 意味付けされるまでに形骸化することで完成する。
それは歴史が伝統になる過程だ。
その段階では多くの場合、無私性が前提され、参加者は 個体ではなく、集団そのものに一体化されるように思われる。
そういう意味では、科学はまだまだ揺籃期にあると言える。
あるいは、科学は揺籃期に留まることにその存在意義が あるのかもしれない。

判断機構としての意識や無意識は、せっかく築き上げた基準を できるだけ維持しようと固定化に近づく一方で、既存の情報とは 異なる情報に備え、個人という振れ幅を残しておこうとする。

秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化 という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス

p.s.
「シン・ゴジラ」と「君の名は。」で感じた違いは、この振れ幅の違いから 理解できるだろうか。
それは現実と夢、科学と宗教の違いに近い。
これは「君の名は。」で夢が題材になったことや、「シン・ゴジラ」の方が 科学的考証がしっかりしているといった話ではなく、集団と個人という グラデーションの中で、どこに位置付けられているか、という話だ。
「シン・ゴジラ」が日本という集団の物語である要素が強く、 「君の名は。」が瀧と三葉という個人の物語である要素が強いのに、 受け手側としてはそれが逆転するというのはとても面白い。