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「今、ここ、わたし」から「いつでも、どこでも、だれでも」への 移行という流れは確かにあるように思われる。

specialなものからgeneralなものへの移行という意味では、 ある種の抽象化として理解できるのかもしれない。
建築のインターナショナルスタイルは典型的であるし、 企業が大規模化した際の仕事の細分化の仕方にも こういった傾向はみられる。
インターネットが普及することで、いつ、どこにいても 違いがなく、多くのサービスにとっては、利用者が だれであっても大きな影響はないということは増えている。
それは、地元の商店街での買い物とAmazonでの 買い物を比較するとわかりやすいかもしれない。
純正律に対する平均律、デザインにおける明朝体に対する ゴシック体の普及、というのはちょっと外れているかもしれないが、 個人的にはこの流れに含めてもよいと思っている。

個人というアイデンティティに固執しているようでいて、 いろいろなサービスにデータが分散し、一つのサービスの 中でも複数のアカウントをもったりすることもある。
その一方で、個人情報という単位が強く意識され、 自ら分散させた情報が、あずかり知らぬ範囲までには 分散しないように努めている。
そこにあるのは「今、ここ、わたし」にしがみつきながら、 「いつでも、どこでも、だれでも」を渇望する、ねじれた姿だ。
物理的身体という殻を保持していることで、個人という単位を 何とか保っていられているが、その殻がなくなったとしたら 「いつでも、どこでも、だれでも」の潮流の中で個人を維持できるだろうか。
個人情報の流出は、それが別の領域の情報とリンクすることで問題が 大きくなるが、それは現実にある物理的身体によって個人というハブが 保持されていることで成立するので、個人がなくなると、もはや問題の 拡がりようもなくなるはずだ。

身体なき意識の限界は、この辺りにあるのかもしれない。

individualはdividualになるのではなく、anti-dividableになっていくのだろうか。
An At a NOA 2016-07-05 “切り分け

ソフトウェアがanti-dividableとならないための防壁として、 ハードウェアという殻を持ち続けたいという欲求が残る、 という説明は妥当だろうか。