ネイティブ
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生まれたときに、何が常識だったかは判断基準を形成していく上で
とても重要になる。
遠隔地同士の通信技術で言えば、
1980年代は、コンピュータはまだ個人で所有することが一般的ではなく、
固定電話や手紙がまだまだ主流だった。
1990年代にWindows95が出たことは、この状況を一変したはずだ。
コンピュータがパーソナルなものになったと同時に、ポケベルやPHS、
携帯電話といったハードウェアやemailといったソフトウェアも普及し
始めることで、固定電話や郵便受けといった集約型のものから、個人個人が
所有する分散型のものへと変化し始めた。
デジタルネイティブと呼べるかもしれないが、アナログからデジタルへの
変化よりも、集約から分散への変化の方が本質的な気がする。
ゆとり教育ということ以前の問題として、一つの基準を集約的に適用する
こと自体の限界が、既に大人の側で始まっていたのかもしれない。
2000年代には、携帯電話やノートパソコンといった持ち運べる機器の
性能向上が著しかったように思う。ゲーム機も、据え置き型から携帯型に
変化した(ワンダースワン@1999、PSP@2004、ニンテンドーDS@2004。
ゲームボーイが1989年から奮闘しているのはさすがである)。
移動に依存せずに通信が行える一方で、通信の発達によってむしろ移動
しなくて済むようになることを、モバイルネイティブの世代はどのように
捉えているのだろうか。
外で遊ばないことや引きこもることが問題視され始めた時期でもあった
ように思う。通信手段のおかげで外に出ずに済むようになっただけでなく、
そういった情報が伝達できるようになった影響も大きいだろう。
2010年代には、フィーチャーフォンからスマートフォンへの移行が加速し、
携帯電話からは物理ボタンの大部分が消え去るのと並行して、電話よりも
コンピュータとしての性格が強まった。コンピュータも、ノート型からタブレット型に
なることで、同じように物理ボタンを失った。物理ボタンへの補償として、
触覚への入力データが偽装されるようになる。
最近はVRやARといった技術も盛り上がりを見せており、視覚や聴覚についても
同様のことが行われることで、通信技術は内側へ内側へと侵入している。
別の側面では、クラウド化の進行に伴い、端末はシンクライアントとして、
物理的にも機能的にも、限りなく薄くなろうとしている。
ソフトウェアの方面では、ソーシャルメディアとAIの影響が大きいだろう。
ソーシャルメディアは意思決定の在り方を変え始めている。
AIの発達によって、ひとたび判断基準が定まると急速に解が収束し、
問題は境界条件の設定までしか残らなくなりそうである。
人間のもとに残されるのは、いずれの領域においても境界=インターフェイス
だけになる勢いだ。しかし、分散が個人という枠を超えてさらに進み、
境界は物理的身体をベースとしたそれと一致するとは限らなくなってきている。
これを、何ネイティブと名付けるべきだろうか。