散文と詩


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ブログの記事を書くときに、打ち込んだ文章が一度で そのまま公開できるかたちになることはほとんどない。
誤字脱字の修正だけでなく、言い方を変えたり、 順序を変えたり、大幅に書き換えたり、ということが、 初稿を読み直す段階でほぼ必ず生じるのだ。

FacebookやTwitterの投稿は、こういった編集行為を 経るものと経ないものとでは、どのくらいの割合なのだろう。

個人的にはブログやメールのような、推敲する時間が取れて、 それを要約したタイトルをつけるメディアの方が好きなのだが、 どうも最近はそういった編集行為を要しないメディアの方が 優勢だと感じる。

おそらく、散文が芸術になり始めたとき、詩人は同種の違和感を もっていたのではないかと想像する。

編集行為という抽象過程は、徐々に発信側から受信側に移っている。
その一方で、現実と比べたときのVRのように、個体の外側に 圧縮過程を挿入するようなものも流行っている。
情報のアウトプット時には編集を厭い、インプット時には編集に 頼りたいということなのだろうか。