臓器移植と金森修
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金森修は今年亡くなり、書籍部の追悼フェアで名前を知った。
「ベルクソン『物質と記憶』を解剖する」に携わっていた
ということで調べてみると、上記のインタビュー記事を見つけた。
是非はともかくとして、金森修の姿勢というのは見習うべき
ものである。己の信条をもちながら、それとは異なる意見が
あることも承知し、共存しながら問題提起をしていく。
臓器移植の問題というのは、物理的身体と心理的身体の
不可分性に関わる。
両者が依存関係にあることには、ほとんど疑いがないように
思われるが、果たして完全に癒着したものとみなすのか、
それともかなりの分離可能性があるとみなすのか。
脳死によって心理的身体が機能停止した段階で、物理的身体
の所有権が放棄され、解体される。臓器が移植される先の
身体においても、元の臓器とは異なるものを導入することで
物理的身体が変更されても、心理的身体には影響がないものと
みなす。
これらはすべて、物理的身体と心理的身体の分離可能性に
依拠して遂行される。
臓器移植には反対した金森修も、人工臓器の導入には
肯定的だったようだから、物理的身体の変更による
心理的身体への影響というのは、大きくはないと見積もって
いたと言える。
彼にとって問題だったのは、心理的身体が「所有」していた
物理的身体を奪ってしまうことだったのだろう。
心理的身体を物理的身体に対して優位におくというのは、
意識にとっては極めて自然な発想なのかもしれない。
仮に、心理的身体の「臓器」を別の物理的身体の心理的身体に
移植する技術があるとしたら、意識はどのような反応を示すだろうか。
心理的身体にとっての「臓器」とは、発想や性格のようなものと
言えるかもしれないが、いずれにしろ物理的身体の臓器移植に
比べると、受容されづらいように思われる。
(まあ、心理的身体とは器官なき身体のことであるから、
臓器organ=器官をもつというのが語義矛盾ではあるが)
そもそも、医学というのは物理的身体への直接的な干渉を大量に
含む。最近ではDecNefのようなかたちで、心理的身体への直接的な
干渉も目立ってきた。
このところAIが心理的身体を獲得することについての議論ばかりが
取り沙汰されるが、その前に人間の物理的身体と心理的身体の関係に
ついての議論をもっと深めた方がよいような気もする。