ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
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「ベルクソン『物質と記憶』を解剖する」を読んだ。
ベルクソンは読んだことがないのだが、本書で様々な論者に
                    よって解釈されるベルクソンの考え方には共感できる部分が多い。
                    折りに触れて多くの論者がギブソンを引き合いに出しているように、
                    ベルクソンとギブソンの方向性に共通点が多いことも影響して
                    いるのだろう(そもそもはベルクソンの方が先だが)。
個人的に特に面白さを感じたのは、
- ポール=アントワーヌ・ミケル「外界の存在について」
- エリー・デューリング「共存と時間の流れ」
- 郡司ペギオ幸夫「知覚と記憶の接続・脱接続」
あたり。そして、何と言っても、デューリングとミケルによる
                    「われらベルクソン主義者 京都宣言」だろう。
ミケルの話で強調される、排中律の棄却の話は、モデル化を
                    唯一に定めることの不可能性と通じている。
                    それは、身近なところで言えば、唯一絶対の正義がないことと
                    同じであるが、そもそも、あらゆる抽象過程が施す抽象自体、
                    それ自身にとっては排他的なものであっても、それ以外の抽象の
                    仕方があり得ないということではない、ということである。
                    ある抽象を解体することは、秩序の解体による無秩序ではなく、
                    別様にあり得る無数の秩序につながる。
                    そしてそれは、秩序の乱立は無秩序とどこが違うのかという
                    問につながるのである。
                    ミケルの言う「拡張された経験」、「思考の脱相関化」は、
                    まさに目指したいところである。
合田正人「記憶と歴史」で作話fabulation(京都宣言では仮構とも
                    訳されている)の話が出てくるが、これは理由付けと同じこと
                    だと思われる。
その他、第1部「記憶と心身問題」に関しては、
                    An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足”
                    An At a NOA 2016-11-18 “デジャヴュとジャメヴュ”
                    An At a NOA 2016-11-21 “記憶の走査”
                    あたりに書いた。
第2部「知覚」ではやはりギブソンとの絡みが多く、場所によっては
                    この次に出てくる時間論も入ってくる。
河野哲也「ベルクソンと生態心理学」において、知覚が選択であり、
                    生物そのものが宇宙の貧困化から生じるという話が出てくる。
                    知覚という抽象過程により秩序を形成することは、自由度を下げることと
                    同値であり、高次空間をより低次の多様体として認識することである。
                    この抽象過程において、新しく創造されるものなど何もなく、
                    抽象とはすなわちフィルタリングのことだというのが河野の主張だが、
                    果たしてどうだろうか。
                    確かにフィルタリングには違いないのだが、抽象によってできあがる
                    低次元多様体が、同時にそのフィルタの特性に影響を与えてしまう様を、
                    何も創造していないと表現するのが適当かはわからない。
                    そもそもはベルクソンの考え方なのかもしれないが、イマージュの側に
                    すべてが詰まっているというのは、やはり飲み込みづらいな、という
                    感覚が拭えないだけなのだが。
第3部「時間」については、デューリングと郡司の話を除いてピンと
                    来なかった。というよりも、デューリングの話を読むことで、
                    “思い出への補足”で書いたような記憶=過去のモデル化に辿り着くと、
                    他のモデル化があまりに冗長過ぎるように感じられる。
時間論に関しては、
                    An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化”
                    An At a NOA 2016-11-20 “現在”
                    あたりに書いた。
郡司の提案する逆ベイズ理論の説明としては、三宅による解説が
                    わかりやすい。
                    ベイズ理論では、事象と仮説のうち、ある事象が確かだとしたときの
                    ある仮説の蓋然性の検討を行うが、逆ベイズ理論では逆に、ある仮説が
                    確かだとしたときのある事象の蓋然性の検討を行う。
                    これはちょうど、「投機的短絡をした上での整合性の確認」に相当する
                    モデル化になっている。
                    知覚はこうして何らかの仮説を前提することになるが、そのセンサ特性
                    こそが過去であり、記憶である。
                    また、仮説の交換可能性はミケルも取り上げた排中律の問題とも関わる。
郡司は仮説を選択する段階について触れておらず、三宅の解説の中で
                    会議当日の質疑応答の様子が語られるにとどまるが、まったくランダム
                    というわけではない、という感触のようだ。
                    それは判断の度に更新される知覚センサの特性としての記憶=過去によって、
                    ある程度の方向付けがされるのだろうか。
                    だとすれば、このような在り方が、ウロボロス的だと言えるだろうか。
この本における最大の不満は、充足理由律について触れる論者が
                    一人もいなかったことに尽きる。
p.s.
                    郡司の話が何故第3部に入っているのかがよくわからず、
                    あえて入れるなら知覚か記憶のカテゴリのような気がする。
                    そもそも、記憶、知覚、時間は3つとも複雑に入り組んでおり、
                    各章にすべての要素が入り込んでくるので、この名前で章分けすること
                    自体が悪手なのではないかと思う。