絞首台の黙示録


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神林長平「絞首台の黙示録」を読んだ。

途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての 話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
でも、最後50〜60ページの展開は期待していたものと ずれにずれていき、なんだかなという感じだった。

新陳代謝をする物理的身体は、神経細胞や心筋細胞等の 非再生系細胞を除き、6年程度で細胞がすべて入れ替わると 言われている(このあたりの出典を知りたい)。
だとすれば、物理的身体と心理的身体の分離性は明らか であるように思われる。
ここで言う分離性は、心理的身体が物理的身体のセンサ特性の 影響を受けないという意味ではなく、同じセンサ特性をもつ 物理的身体であれば、構成要素は違ってもよい、という意味だ。

神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という 心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は 神経系の回路の結線状態として維持されるのであれば、 その状態を複製することで、心理的身体も複製される。

複製が完全であれば、オリジナルとコピーの区別はなく、 複製時点では同じセンサ特性=記憶を有する心理的身体が 誕生する。
そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。
情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する ことは可能かもしれないが、複数の物理的身体に接続された 単一の心理的身体というものが、どのような身体感覚を 有することになるのかは想像するのが難しい。
(いわゆる多重人格の逆の状態である)

畑上ユニットで行われていた研究の究極の目標は、非再生系 細胞も含めた、物理的身体の完全な複製だと解釈できる。
オリジナルをどのように保存するかという問題はあるものの、 新陳代謝のような入れ替えではなく、オリジナルとコピーの 両方を残しておくような複製が可能になれば、上記のような 事態は起こり得る。

オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。
それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの ことをも、その人物だと認識できるだろう。
攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような 「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。
それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう 情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程 につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、 よっぽど自然である。
意識とはそういうものだ。

そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような 物理的身体の複製に伴う心理的身体の在り方の方を掘り下げた物語を 読んでみたかったな、というところだ。