Waymo
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昨日今日でGoogleの自動運転車に関する記事が
二つ出た。
一つは昨日The Informationに書かれた
Google Scaled Back Self-Driving Car Ambitions
という記事。
もう一つは今日Mediumに書かれたJohn Krafcikの
Say hello to Waymo: what’s next for Google’s self-driving car project
という記事である。
前者はsubscriptionが要るので全文は読めていないが、
文責のある人間はGoogleの人間ではなく、記事には
according to people close to the closely-watched project
とある。
後者は前Google自動運転車部門のCEOで、新しくWaymoの
CEOに就任した人間が書いている。
前者の記事自体は特に責められるようなものではないのだが、
昨日のキュレーションサイトはこの記事(を引いたbusiness
newslineの記事)を引いて、「Googleが自動運転車から
事実上撤退か」みたいな論調で騒いでおり、なんだかなー、
という感じである。
自動車の運転に関しては、人間が使う制御機構を実装しない
完全自動運転車が実現して欲しいと思う。
トロッコ問題のような倫理の話を持ち出して、correctnessから
rightnessの問題にすり替えるのであれば、ハンドルやブレーキは
残すべきだ。
しかしそれは、意識のせいでcorrectnessが損なわれる代わりに
rightnessを用意しているだけである。
もちろん、rightnessを持ち出す方がよい場面もあるが、交通が
高速度で広範囲に渡る場合に関しては、そうは思わない。
人間の操作が介入するせいで交通は乱れ、けが人や死者が出る。
倫理的判断を組み込めば、rightな損失を取ることで、ある集団
にとっての納得は得られるだろうが、その集団が人間全体と
一致することはおおよそあり得そうには思えない。
冷酷にみえるかもしれないが、correctな損失を取り続けること
でしか、自動運転車の運用は続かないと思われる。
それは、死の受け入れ方の問題である。
また別の話で、運転をすること自体が心理的身体の維持に役立ち、
認知症に至るのを防いでいる側面もあるかもしれない。
しかし、心理的身体の維持は別の方法でも行えるので、運転車自身を
含む、少なくない物理的身体の損失する可能性をはらんだままにして
おく妥当性はないように思われる。
高速度で広範囲な交通の理想形はユートピア=ディストピアである。
正義が一意に決まり、correctnessが担保されることで、損失の数は
劇的に減るだろう。
究極的には、心理的身体だけでなく、物理的身体も消え去る。
人間の物理的な移動は、局所的で低速なものに限るのが理想だ。