教育の抽象化
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教育が言葉のみによって行えるとは到底思えないが、
教育の抽象化が進むに連れて、そのような側面が
強まっているようには感じる。
一人の人間が短期間に仕入れる(圧縮された)情報の
量があまりに多い場合には、それを言葉という
プロトコルで送信することで、通信量を可能な限り
減らす必要がある。
言葉の形式で圧縮しておけば、再現性も高レベルに
維持しておけるので、言葉やその内容、あるいは
通信媒体が劣化するまで、比較的長い期間、
メンテナンスが不要になるというメリットもある。
一方で、そういった圧縮された情報を、圧縮された
状態でしか受け取らないことにはリスクも存在する。
圧縮前の、伸長した状態の情報から、何をどのように
何故そのかたちで抽象したのかが伝達されなければ、
圧縮された情報は形骸化する。
さらに、それに慣れるということは、単一の評価基準を
受け入れやすくなるということであり、固定化に
収束する可能性を高め、それは扇動にもつながる。
体験学習のようなかたちで、視覚、触覚、聴覚などの
言葉以外の情報も同時に与える教育というのは重要
だと思うが、いかんせん時間的、金銭的なコストがかかる。
その上、伝達方法を工夫しないと、教育を受ける側で
何も抽象することができず、結局知識としては残らない
可能性もかなり高い。
学校教育は歴史も長く、既に教える側がその体系に
かなり依存した考え方をもっている。
言葉だけでは伝達困難な内容があることは承知しつつ、
抽象化した方が高速で安価で安易であるから、
時には抽象化していることすら忘れて教育に邁進する。
それは近代化の成果であり、近代化に不可欠なものだったが、
せっかくそれを駆使して機械の性能を上げてきたのだから、
ある領域は外部化することで、教育のスピードを落とし、
圧縮していない情報の伝達にコストを割り振るというのも、
一つの手なのではないかと思う。
身体という抽象機関は、抽象し続けることでメンテナンス
しないと容易に劣化するように思われ、抽象することに
慣れていない、あるいは抽象することを忘れている身体は、
問を省略して安易に答えを求める傾向にあると感じる。
心理的身体が劣化した個体の方が、集団として制御するには
抵抗が少なくて楽なのかもしれないが。