何かを抽象化する
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An At a NOA 2016-01-24 “教育の抽象化”
で書いた話は、何も教育に限ったことではない。
例えば、読書というものを、文字や絵等として
符号化された情報を受け取る行為として抽象する
のであれば、紙の書籍だろうが、電子書籍だろうが、
あるいはオーディオブックのように聴覚として
受け取る形式でさえも、同一の行為になる。
それで十分だと思えるなら、読書をそのようなもの
として抽象すればよいし、紙の書籍でページをめくる
際の指の動きや、紙のにおいも含めて、より抽象度の
低いものとして読書するのであれば、それもそれでよい。
個人的には、抽象度の低い読書の方が好きだ。
本棚を整理すること、日々背表紙を眺めること、
読む前に表紙を一瞬目にすること、紙のにおいを
嗅ぐこと、ページを指でめくること、文字を目で
追うこと、頭のなかで声に出してみること。
多くの要素が読書の一部を形成することで、
符号化された情報の受け取り方にも影響すると
思っているというだけだ。
あるいは、喫茶というものを、カフェインの摂取として
抽象するのではなく、豆を買いに出掛け、毎朝手で挽き、
沸かした湯の温度を測り、加減よく注ぎ、豆が膨らむのを
見て、立ち上がる香りを嗅いで、ゆっくりと味わうことの
総体として、抽象度が低いままに遂行するという贅沢。
ある行為の結果を効率よく求めるのであれば、
可能な限り抽象化するのがよいと思われる。
しかし、答えよりも問を大事にしたいのと
同じ意味において、結果よりもその行為自体を
大事にしたいこともあり、そういうときには
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。