意識に直接与えられたものについての試論
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アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」
を読んだ。
ベルクソンが継起、持続、質等の単語で呼ぶものが理由付け、
同時性、延長、量等と呼ぶものが意味付けによって抽象される
対象にそれぞれ相当する。
より正確に言えば、理由付けの対象は、理由が付けられていない
状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる
所以であり、抽象された後には過去=記憶という延長として
残るのである。
この内的状態の外的顕現こそ、まさに自由行為と呼ばれるものであろう。
アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」p.185
内的状態は理由付けによって外的顕現へと切り出される。
併置ではなく浸透によって常に変化しつつある物理的身体や
心理的身体に対して、あらゆる理由付けをし得ること、
任意の物語として語れることが、自由ということだ。
われわれは自分がいかなる理由によって決断したのかを 知りたがるが、われわれは、自分が理由なしに決断した ということ、それも、おそらくは一切の理由に反してさえ 決断したのだということに気づく。しかし、まさにそれこそ、 場合によっては最良の理由なのだ。
同p.189
内的状態を外的顕現へと切り出すための理由は、常識等の既存の
理由であってもよい。
しかし、一切の既存の理由によらず、判断の後からでも理由が
設定できること、むしろ判断自体が先行する理由をもたず、
投機的短絡であることが自由をもたらす。
理由が先行するというのは機械論的発想であり、あらゆる機械論は
理由の連鎖がユニークであると仮定することと同値である。
だから、理由の連鎖が組み上げられた後で、それを決定論的にみなす
ことは容易であるが、その連鎖を組み上げるまさにその開始点にこそ、
自由があるのである。
天文学者の話は、シミュレーションとエミュレーションの違いである。
シミュレーションでは、構造を抽象することで対象の延長的な性質のみを
考慮するおかげで、時間は単なる媒介変数として扱えるようになる。
一方、エミュレーションの場合には、具象のまま対象の持続的な性質を
考慮したい場合が多く、時間は空間のように等質なものではなくなる。
あらゆる過去が、理由付けを経て圧縮されているためにシミュレーションの
対象となるのに対し、未来については、対象の延長的な性質を語る場合に
限ってシミュレーション可能であり、持続的な性質が関わる場合には
エミュレーションによるしかない。
それはつまり、直接経験するということに他ならない。
想起される過去や力学モデルとして抽象した未来が、実時間よりも遥かに
高速に再生できるのは、それらが抽象によって圧縮されることで、
シミュレーション可能になっているからである。
実際、天文学的予見と同一視されるべきは、まさに過去の意識的事象 であって、将来の意識的事象の先取的認識ではない。
同p.218
因果律もまた、抽象によって生じるのだから、それはシミュレーションの
世界にしか適用できない。
つまり、物理法則や過去の記憶といった対象である。
それをエミュレーションの世界に持ち込むことで、その因果律が想定する
抽象が理由の連鎖のユニークネスの仮定につながり、 決定論へと収束する。
過去、現在、未来というのは、ある数直線上にこの順で置かれた同じ種類の
何かではない。
ベルクソンの言う持続とは、情報を抽象する過程であり、特徴抽出としての
意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。
過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
未来は過去を利用することでシミュレーション可能だが、シミュレーションは
必ず何らかの抽象を伴うため、失われる情報がある。
その損失は、「未来を用いてシミュレートされた過去simulated past」と
「来たるべきエミュレートされた過去emulated past」の間に齟齬をもたらす。
それは、理由の連鎖がユニークでないことの現れである。
現在とは、それこそ、流れる時間というモデル化とともに現れる、
「機械論的な説明の物質化された残滓(p.165)」に他ならない。
シミュレーションのみの世界は「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界と
同じである。
そこではすべての抽象が不変であり、決定論的に振る舞う以外にないため、
自意識も自由もなくなり、時間は媒介変数になるだろう。
エミュレーションのみの世界は悩み多き世界であり、宗教や科学を手に入れる以前の
「動物的」段階への回帰である。
そこでは、過去=記憶が存在せず、やはり自意識はなくなるだろう。
人間はシミュレーションの領域を少しずつ増やしながら、エミュレーションと
上手く両立させてきた。
ベルクソンが、「自由とは何か」という問を「時間は空間によって十全に
表されうるか」と換言した上で、
流れ去った時間については諾だが、流れつつある時間については否である、と。
同p.241
とするのも、その両立を表す。
本当の来たるべき過去を知るには、エミュレーションによるしかない。
そこに、自由の自由たる所以が現れており、エミュレーションの中で行われる
短絡の投機性を自由と呼ぶのだろう。
There is no knowing about the Coming Past other than emulating it.
It represents the attribute of free will, and speculativeness of short circuit
during the emulation is called as free will.