屍者の帝国、あるいは


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年末に「屍者の帝国」の映画を観た。

原作とはかなり違う内容になっているが、そもそも原作も 伊藤計劃のプロローグを基に円城塔が書いたものなのだから、 それはそれでよいのかもしれない。
ただ、中途半端に円城塔のストーリィをなぞろうとした結果、 問題設定がよくわからなくなってしまっているのは、とても残念だ。
円城塔が費やした紙幅を縮めた上で同じ内容を表現するためには、 円城塔以上に円城塔の問題設定の抽象とその具象への落とし込みを やる必要がある。
このことがうまくいっていたようには感じられなかった。
(その点、「ハーモニー」の映画は原作をほぼなぞれたので、 そのあたりの難しさは少なかったのかもしれない)

同じく年末に、「伊藤計劃記録」を手に入れ、「侵略する死者たち」 を読んだ。

我々が死者に安らかであれ、と願うのは何故だろうか。
それは死者が往々にして安らかではないからだ。
伊藤計劃「伊藤計劃記録」p.138

この小論では「死者の帝国」という単語が何度も出てくるが、伊藤計劃は 何故「屍者の帝国」という題で新作を書き始めたのだろうか。

死者と屍者の違いについて、「屍者の帝国」を読んだときに

物理的身体が機能停止することで死者になるのに対し、 心理的身体が機能停止することで屍者が生まれ、その物理的身体は 至って健全である。
An At a NOA 2016-12-28 “屍者の帝国

と書いた。
伊藤計劃が書いた「屍者の帝国」のプロローグの中では、死人、死者、 屍者という単語が入り混じっているので、この違いはおそらく伊藤計劃 本人の意図するところとは違うだろう。
しかし、「死者が安らかでない」と言うことができるためには、死者の 心理的身体が生者の心理的身体の中で生き続ける必要があるように思われる。
生者の中に生き残っていた死者の心理的身体が機能しなくなることで はじめて、死者は屍者という物になる。
屍者は物として扱われるため、安らかであるか否かが問題にならない。
屍者は死者と違って生者を「呪縛し、規定し、衝き動かす」こともなく、 むしろ労働力として生者を助ける存在として描かれる。
これらの点から考えても、死者と屍者の区別を意識して「屍者の帝国」を 描くのは、あり得る展開の一つのように思われる。

ハーモニープログラムが、生者の心理的身体を強制的に奪うことで、 「生者の帝国」を「屍者の帝国」へと変換するスイッチなのだとすれば、 「死者の帝国」を「屍者の帝国」へと変換する機構、あるいは、 「生者の帝国」を「死者の帝国」へと変換する機構として「屍者の帝国」を 描くことは可能だろうか。
前者の機構によって、生者は死者の呪縛から解放されるが、そのための 屍者技術はプロローグで描かれており、ワトソンをはじめとするこの世界の 生者たちは、既にこの状態にあるように感じられる。
そこで、前者の帰結として後者が実現される様を描くとすると、 生者は労働のアウトソーシングによって物理的身体を強制的に剥奪され、 心理的身体のみを有する「死者」として生き残る―
ハードウェアなきソフトウェアの問題として面白そうではあるが、 労働からの撤退が心理的身体の喪失に至るというプロットよりも 楽観的なストーリィに思えてしまうのは、心理的身体としての私という 意識が生き残るためだろうか。

しかし、楽観している私よ。
貴様の在り様は物理的身体というハードウェアを有していたときとは まるで違うということも十分にあり得るのだ。
ハードウェアを失った死者の心理的身体が、代替のハードウェアとして 生者を利用して生きながらえるのと同じように、「死者の帝国」における 心理的身体は、何かに寄生して生きながらえさせられる。
その「何か」は、屍者だろうか、あるいは、死者同士だろうか。
死者同士が互いにその心理的身体を生きながらえさせるのであれば、既に ネットの海は「死者の帝国」の様相を帯び始めているようにも思われる。

2017-01-04追記
「屍者の帝国」の展開に伊藤計劃の影を追い求めること自体、 各人が死者としての伊藤計劃を生き続けさせていることの 証左である。
任意の屍者をして伊藤計劃たらしめるために、己が伊藤計劃の 死者を召喚してその屍者にインストールする作業。
その意味で、「屍者の帝国」の発展のために、生者は死者に なるのかもしれない。