せめて、人間らしく
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掛け算の順序が違うだけで不正解になる教育の国では「教わったことを他の方法でもやってみる」人が少ないのも当然と思う。それで不正解にされる教育を受ければ勉強に対して受け身になるのは、当然の結果かと。 pic.twitter.com/VWuthWuiRc
— MORI Tomoya (@moritomoya) 2017年3月14日
昨日のシンポジウムのトークセッションの最後は
人材育成の話に至り、シンポジウムの中で一番
盛り上がっていたように思う。
文科省主導のプロジェクトなのだからもっと教育の
話をすればよいのにと思ったのだが、時間の関係も
あり、盛り上がり始めたところで終わってしまった。
与えられた抽象方法を遂行するのは得意な一方で、
どのような構造を抽象すると面白い結果になるかを
発想するのが不得意な人材が多いという嘆きに対し、
前者は人工知能で置換可能だから、人間は後者の
能力を伸ばす必要があると指摘するところまで含めて、
よくある話に落ち着いた感はある。
「教わったことを他の方法でもやってみる」ことが
できる雰囲気を醸成するように方針転換したとして、
結果が出るのは果たして何十年後のことになるのだろうか。
村社会である日本はそもそも固定度が高いのに加え、近代以降、
企業や国家という大規模な集団をつくるために固定化はさらに
進められてきたように思う。
そういう固定度の高い社会に、人工知能に基づく抽象過程を
固定度が高いままに導入できるのかはかなり疑問だ。
固定化と発散のバランスを上手く調整しないと、集団の瓦解と
ディストピアのいずれかを選択しなければならないときが来る
ことも、ないとも言い切れない。
人間が発散を担当し、人工知能が固定化を担当するというのも、
それはそれでディストピア感があるのかもしれないが、
両者がともに固定化に舵を切った場合や、役割が逆転した場合に
比べれば、よっぽど人間が人間らしくある集団になる気がする。