進化論の射程


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エリオット・ソーバー「進化論の射程」を読んだ。

進化論を議論の中心においており、生物学の例も 多く出てくるが、この本で取り上げられているのは、 むしろ人間の思考様式に関する問いだと言える。

生物学的と物理学的、科学的と非科学的、最節約的と 全体類似度、系統推定と分類等、いろいろな思考様式が 比較して取り上げられ、議論となり得る点が指摘される。
本書ではどちらかというと見る側の人間よりも見られる側に 重点をおいて議論が展開されるが、三中信宏が「分類思考の世界」 で述べた、「種」は「分類される物」の側ではなく、「分類する者」 の側にある、という考え方も含まれているように思う。

思考様式は一つの抽象過程であり、何を構造とするかについての 判断基準の違いによって差が生まれるが、その違いは理由の含み方 にあるのではないかと思う。
抽象される対象の中にもある程度の構造はあるかもしれないが、 抽象結果は抽象する側の理由の設定の仕方にも依存する。
理由それ自体について、ソーバーがどのように捉えているのか については聞いてみたかった。

理由を伴う心理的身体の情報処理には、物理的身体の情報 処理が先行するため、心理的身体の特性は物理的身体の特性の 影響を被ることから、抽象される側に予め含まれる構造というのは、 物理的身体のセンサ特性を反映したものである可能性もあると思う。
カントの言うアプリオリも同じことだろうか。

理由を中心に考えたとき、真理や真実が存在するかという問いは、 究極的に「正しい」理由が存在するかという問いと同じになる。
果たしてそんなことはあるのだろうか。
そもそも、充足理由律すら疑い得るはずだが、あるいはそれは 心理的身体が要請するのかもしれない。

意識という心理的身体によって理由を設定することができ、 それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは 異なる種類の抽象過程を可能にする。
それによって排中律も無矛盾律も破ることができるのが、 意識の利点にも欠点にもなり得る。
第7章で展開される生物学的進化と文化進化の話はまさにここに 関わっている。

すなわち自然選択によって、自然選択のくびきを離れた 独立の選択過程が生み出されたのである。
エリオット・ソーバー「進化論の射程」p.423

これについては、アレックス・メスーディ 「文化進化論」も読んでみたい。

人間は意識を実装することで、無意識のみによってはいずれ 淘汰によって排除されてしまう不安定な判断基準を保持できる ようになったが、果たして人間のままでいて人間を把握することは どの程度まで可能なのだろうか。