ラインズ


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ティム・インゴルド「ラインズ」を読んだ。

意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、 観光と旅、近代とは。
個人的に考えているいろいろな問いは、表面的には 違っていても、共通する問題設定があることを 思い出させてくれるような本だった。

著者が区別する、糸threadと軌跡traceの違いは、 意味付けと理由付けの違いに相当する。
人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって 意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと 同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
しかし、その分類は判断やラインに固有のものという よりは、それを見る人間の見方を反映したものであり、 どちらにも分類できないこともあるだろう。

ひもは糸であると同時に軌跡であり、どちらか一方に 限定できない。
ティム・インゴルド「ラインズ」p.89

近代における物の見方というのは、外部に顕現していた 軌跡を内部へと回収し、外部にあったラインを糸へと 張り替えるものだったと言える。
個は一点に集中したものとして捉えられ、外部にあった 個の痕跡からは個性が剥奪された。
それは線描から区別される記述の誕生であり、 近代化というのは、そのような個の内部への巻取り だったように思う。

かつて連続した身ぶりの軌跡だったラインは―近代化の 猛威によって―ずたずたに切断され、地点ないし点の 継起となった。
同p.123
近代において、外部から軌跡が排除され糸だけが 残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。
An At a NOA 2017-05-06 “マルセル・ブロイヤー展

線描としてのラインは、すべての情報が保持、伝達され、 具象として扱われるのに対し、記述としてのラインは、 ラインがもっている情報の一部分だけが使われることで、 抽象として扱われる。
芸術も技術も、ある情報を異なる形式で複製する過程であり、 芸術の本質はその過程で何を削ぎ、何を残すかにあると思うが、 複製過程において情報の欠落が全くないのであれば、 それは芸術ではなく技術になる。
抽象されたラインが誕生したことで決定的だったのは、 保持、伝達される情報が少なくなることで、完全な複製が 行えるとみなされるようになったことだろう。

線状化の過程の本質とは、まさにこうした断片化と圧縮 ―〈運び〉の流れる動きの瞬間の連鎖への縮約―にある。
同p.230

発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に 対応する。

著者が徒歩旅行と輸送として区別するものもここに並べられ、 これは旅と観光の違いに相当する。
移動が軌跡である徒歩旅行や旅では、移動する者は判断基準の 変化を伴いながら移動する。
一方、観光客は、「点と点をつなぐ連結器としての輸送という糸」 +「観光地として巻き取られた軌跡」という近代的な移動を行う ため、観光地において、現地人と観光客の判断基準の大きな差異が もたらされる。
このあたり、東浩紀「ゲンロン0」の話題が関連する。

著者が指摘するように、インターネットのネットワークのイメージは、 ノードに巻き取られた個と、それをつなぐ糸としてのエッジとして 既に成立してしまっている。
コミュニケーションは、軌跡を拭い去られた糸を介して行われており、 それは良い面も悪い面もはらんでいるが、軌跡がないことによる ディスアドバンテージはあまり省みられないように思う。
メッシュワークの形態をインターネット上で構築することは 可能なのだろうか。

第六章で述べられるように、近代において抽象されたラインは、 その究極の形態として直線に至る。

直線の覇権とは文化一般にみられる現象ではなく、 近代の現象なのである。
同p.238

スケッチと図面、CADの影響など、面白い話題に尽きない。

博士論文の題材である非線形性の問題も同じである。
近代として思考する科学の枠組みの中で、非線形性は如何にして 線形化されているのだろうか。