ゲンロン5


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「ゲンロン5」を読んだ。
特集は「幽霊的身体」である。

「幽霊的」という言葉は、何かしらのズレに関連している。
ズレと言うからには複数のものがあって、そこには差がある はずだが、何かを基準にとって「共通部分+差分」と分けて 差分だけを扱うのは「幽霊的」ではない。
複数のものを同時に捉えたときにみえてくるズレを、そのまま 扱うのが「幽霊的」なのではないかと思う。

共同討議1「記号から触覚へ」の中で、東浩紀が提起した

  • 仮想現実
  • 死者の追悼
  • 政治やイデオロギー

という三つの問題、あるいは演劇や舞踊といったテーマは、 過去と現在、物理的身体と心理的身体、現実と虚構、現状と 理想、といったいろいろなものの間にあるズレが「幽霊的」 に捉えられ得ることを示す。
これらの間にいくらでもあるズレを、差分として切り出す ことで「幽霊的」なものを除霊しようとしたのが近代で あったが、それはことがらをことばで置換し尽くすことと 同義であった。
ズレを「幽霊的」なままに扱うということは、ことばに ならないことがらを受け容れることであり、ユートピア= ディストピアに陥らないユートピアの在り方にも通ずる。

共同討議1で梅沢が述べるように、確かに震災後に現実の 情報がインターネット上に溢れるようになった感がある。
おそらく、震災時の連絡手段としてtwitterが機能したあたり から堰を切ったように流れ込み始めたのだと思うが、それは 同時にプライバシー等のいろいろな問題を引き起こしている。
現実はもはやインターネットを虚構として切り分けていられ ないし、インターネット(あるいは広く情報技術)も物理的 身体の影響を無視できないはずなのだが、これらを支えている 国家や科学といった枠組みが、近代を引きずらざるを得ない ところに限界があるのかもしれない。

共同討議1の注5で

芸能とは共同体の利益のために行われるものであり、それに 対して芸術とは「信仰を等しくせざるものが現れ、他者の 視線が出たとき」に生じるものである 共同討議1「記号から触覚へ」
「ゲンロン5」p.41

という鈴木忠志の言葉が引用されている。
信仰とは、心理的身体に固定化した部分をもつことで行われる 真への短絡であり、同じ正義を共有することで集団が出来上がる。
その集団の中では、信仰を守るための芸能は技術として発展し、 複製の完全性が求められる。
技術としての芸能が芸術になるには、複製の不完全性によるズレが 必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。
鈴木忠志の言葉を踏まえ、幽霊的なものを失うことで芸術は芸能に 堕ちてしまうと東は述べており、これはまさに「ゲンロン0」の 観光客の哲学と通底する話だろう。
あらゆることがらをことばに置き換え、芸能という技術だけに 頼るというのは、皆が同じことを信仰する状況であり、それは ユートピア=ディストピア以外の何ものでもない。

「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76

インタビュー「人間は足から考える」の中で、西洋が忘却している として鈴木忠志が批判する下への意識も、同じ文脈のように思う。
直立二足歩行から始まり、どんどん地面から離れていく中で、 物理的身体と心理的身体の関係は崩れてきた。
心理的身体が物理的身体を制御しようとするのでもなく、心理的 身体をなくそうとするのでもなく、両者がどのように「幽霊的」 に共存し得るかを実践するのが、演劇や舞踊の醍醐味であり、 難しさでもあるように思う。

共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」ではまた別の視点として 時間のズレの話が出てくる。

型とはつねに過去から来たアナクロニックなものであり、 現在に入り込んだ別の時間である 共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
「ゲンロン5」p.68

という東による鈴木忠志「演劇とは何か」の読みは、時間軸上の 「幽霊的」な在り方に対応している。
木ノ下裕一が語る、歌舞伎における〈名跡〉や〈型〉、幽霊の話も これに関連している。

古典芸能における幽霊は、過去をあぶり出すための装置である。
同時に、〈過去そのもの〉である。
(中略) 歌舞伎には常に複数のレイヤーがかけられ、観客は、それらの 層の襞の中で、時間軸を超越しながら遊ぶ。
木ノ下裕一「幽霊としての歌舞伎」
同p.145

型を行う物理的身体と物語る心理的身体の共存が、そのまま同時に 時間的な共存でもあるという構造自体もまた、「幽霊的」に共存 しているというのがとても面白い。

そこからさらにフロイトの「不気味なもの」の話に発展して、 不気味の谷現象の話が出てくるが、物理的身体の抽象に耐える ためのディテールをいくら精緻化しても、心理的身体の抽象 とのズレがある限り、不気味の谷は埋まらないのだと思う。

不気味さの経験というのは、たんに疎遠さへの嫌悪や 警戒感だけではなく、親しさの経験とも混ざっている。
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
同p.69

熱素やエーテルという幽霊が除霊されたのと同じように、 「わたし」という自意識が幽霊として除霊される未来も あり得るだろうか。

複数の集団に同時に属することができるのが人間の特徴であり、 演劇の起源かもしれないという平田オリザの指摘は興味深い。
人類、国家、都市、家族といったいろいろなスケールの集団に 同時に属しているために、集団ごとに振るまい分けるところから 演劇が始まるというのは、鈴木忠志が指摘する他者の視線の話 とも通ずるところがあると思う。
それはまた、飴屋法水が演劇を「半々」なものと表現し、

いま自分が「そうではなかった可能性」を半分は内包しつつ生きる。
それが演劇がやっていることです。
対談「演劇とは「半々」である」
同p.99

と述べていることでもある。
建築にとっては、ビルディングタイプの多様さと関係する かもしれない。
近代は、住宅の機能を括り出すことで公共の施設を生み出して きたが、それは各集合が直和になるような切り分け方であり、 人間が複数の集団に属していることの現れというよりは、 人間をプロパティの集合とみなすことの現れだったように思う。
プロパティに解体されることなく、複数の集団に属しながら 「幽霊的」でいる人間のための建築はどのようなものだろうか。