囲碁と将棋と物語


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囲碁ではAlphaGo、将棋では藤井四段といった ニュースが続き、囲碁や将棋が盛り上がっている のは嬉しいことだ。

特にどちらも上手く指せるわけではないのだが、 大盤解説や感想戦で一手ごとに理由付けをする文化が ある一方で、対局者はかなり意味付けに近いレベルで リアルタイムに判断を下していると思われるという、 理由付けと意味付けの狭間で行われている感じが好きだ。
藤井四段が詰将棋を解く速さなんかは、盤面に色がついて いるように見えるレベルで意味付けされていないと、 達成できないのではないかと思う。

チェスや将棋は囲碁に比べるとAIの発達が先行したが、 それは盤面の広さよりも、やはり駒が動きという物語を もっていることが、理由付けに基づくAIの実装を容易に したためではないかと思う。
個々の碁石には物語がなく、碁石同士の位置関係しか 物語ることができないのに対し、将棋駒はそれ単体で 動きという物語をもち、位置関係によっても物語る ことができる。
だから、コンピュータを駆使した極めて高速な理由付けは、 より多くの物語の筋をもつチェスや将棋と相性がよかった。
囲碁は、すべてを物語ることに固執せず、物語らずとも 「見ればわかる」方へも手をのばし、成功をおさめた。

「見ればわかる」が感じたちょっとした違和感を頼りに、 別の「見ればわかる」につなぎ替えるように物語ることが できたら最強だろうなと思う。
それは本当は人間ができることのはずだけど、特定の物語に 拘泥したり、物語ることを放棄したり、「見ればわかる」 はずはないと思い込んだり、「見る」ことをしなかったり、 「見ている」ことを忘れたり。
落とし穴はいくらでもあいている。