生命に部分はない


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アンドリュー・キンブレル「生命に部分はない」を読んだ。

抽象することで、全体であった無相の情報は、部分である 有相の情報に分けられる。
理由付けによって抽象することを「理解する」と呼ぶと すると、生命を理解するということ自体に、生命を部分 としてみるという価値観が既に内包されている。
自然を人工にする、あるいはよきもの(good)を物品(goods) にするということは、理由によって自然を塗りつぶすことだ。
それは、あらゆるものを「わかる」ようにする、という態度 であり、それが一意的な理由付けを目指すとき、機械論的な 発想に陥ることになる。

何が完璧で、何が異常で、何が悪いかという観念は、 しばしば単に既成の文化的枠組みの反映にしかすぎず、 私たち自身の偏見や社会的偏見の表れである場合が多い。
アンドリュー・キンブレル「生命に部分はない」p.244

とあるように、科学もまた一つの理由付けでしかなく、 科学が答えになってしまうようでは、常に問いによって更新 されるという科学の性質に反するように思われる。
「パーフェクトな」というかたちで、物理的身体に答えが 埋め込まれてしまうと、折角の理由付けのつなぎ替え可能性が 損なわれてしまい、その先には、知恵の樹の実を返上し、 生命の樹の実を手に入れたユートピア=ディストピアが待って いるように思われる。
それを望むことが悪いとは言えないのかもしれないが、 それを望んでいる自覚がないのだとしたら不憫に思う。

「生命に部分はない」という宣言は、こういった事態に対する 反動であるが、その反動として、「わかり」過ぎることなく、 「わからない」でいることを大事にするようになるだけであれば、 神秘主義に戻るだけであり、ただの技術脅威論になってしまう。
それは、機械論とは別のユートピア=ディストピアを用意するだけ であるような気がしてならない。
パートⅣがそういった方向に読めてしまいそうなところがやや 気がかりであるが、福岡伸一による訳者あとがきの、

理念というものは、かそけきものであるがゆえに、 語り続け、求め続けなければならない。
理念は常に不利なのである。
同p.578

という文に救われており、ここを読むところまでが本書をなすと 言ってよいだろう。

物理的身体を維持するための機構として心理的身体が実装された のだとしたら、心理的身体のエゴイズムによって、いつの間にか、 心理的身体を維持するために物理的身体が利用される事態に陥って いるというのは、まことに滑稽な状況だ。
生の間際と死の間際において境界を確定し、身体を物理的にも 心理的にも刻むことでサイボーグ化するという、時空間にまたがる 部分化が、一つの答えとして進行・信仰される限り、非難は免れない。
しかし、理由付けがつなぎ替え可能な抽象として機能する限りは、 それを放棄する必要はないように思われる。
他の「わかり」方があり得ることを常に想定しつつ、「わかろう」 とし続けることが、心理的身体を実装した人間なりの在り方になる ような気がしている。

更新はただ見積もることができるだけである。
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.54

とクラーゲスは述べる。
見積もられない更新はただの発散する脅威であり、更新は理由付けに よって見積もられることでリズムになる。
その見積もりが反復になると、リズムは拍子として固定化する。
その固定化と発散の間でバランスを取り続けることが、「わかろう」 とし続けることだ、…というように、いくら言葉を尽くしても、 特定の言葉として表現すること自体が一つの固定化をはらみ、 次の発散を促すしかなくなる。
それが、「わかろう」とし続けることの難しさだ。

大いに争いなさい。
固定化と発散の争いなきところに
人間はいないのだから。