リズムの本質について
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ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」を読んだ。
リズムと拍子(タクト)の違いを表す、
拍子は反復し、リズムは更新する ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.49
という一文が有名であるが、その意味は、先行する
以下の部分によく表れている。
拍子が同一のものを反復するとすれば、リズムに ついてはこう言わなければならない。
リズムでは類似が回帰する、と。
同p.49
複数の対象について、「何を同じとみなすか」が固定
されると、それは固定化を促すハードウェアとして機能し、
完全な複製を可能にすることで、全く同一のものが反復
できるようになる。
そこに現れるのが、機械的、技術的な拍子である。
一方で、「何を同じとみなすか」が固定されないと、
複製は不完全になり、繰り返されるのは全く同一の
ものではなく、類似したものになる。
類似性が「何を同じとみなすか」に依拠しながら、
類似とされるものが回帰することによって、「何を
同じとみなすか」の基準自体が更新されていく。
そこに現れるのが、生命的、芸術的なリズムである。
あらゆることに理由付けられることで複製は 完全になり、技術と呼ばれるようになる。
(中略) 逆に、複製過程において理由がわからない 部分があると複製は不完全となり、芸術と 呼ばれるようになる。
An At a NOA 2017-06-14 “芸術と技術2”
リズムと拍子の違いはエミュレーションとシミュレーション
の違いでもある。
反復は計算可能である。更新はただ見積もることができる だけである。
ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.54
両者ともに時間と関係しているが、リズムの時間が
エントロピーの意味での時間なのに対し、拍子の時間は
媒介変数としての時間でしかない。
無意識=身体と意識=精神を分けた上で、
同一のものとは思考が産み出した思考物である。
(中略) 類似のものとは精神の行為的活動とは独立に生じる体験内容 であり、(中略)それをわがものとすることはまったくできない。
同p.50
としているのは、「何を同じとみなすか」について、
思考によって特定の理由付けをしてしまうことが、
「何を同じとみなすか」の固定化をもたらすことを示す。
それは、理由付けをする意識自体の存続を脅かす。
理由付けによる抽象の仕方が一通りしかないとするのは、
そのモデルによってしか世界を見ないということであり、
機械的、技術的、人工的、反復的、シミュレーション的、
などと呼べる、媒介変数としての時間が流れる世界を
受け容れるということである。
そこは「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界と
同じであり、そこでは意識は不要である。
時間が永遠と
永遠が時間と同じ人は
免れている。
いっさいの争いを。
同p.100
「何かを同じとみなす」ことには、必ずしも理由は要らず、
物理的身体の意味付けによることも可能だ。
しかし、それが固定化しないでいるためには、「別の理由
付けがあり得る」という、理由付けのつなぎ替え可能性に
よって、複製の中に完全性ではなく類似性を見続けることで、
拍子をリズムたらしめる必要がある。
その一方でまた、理由付けのつなぎ替え可能性だけに頼る
ことは過大な発散をもたらし、固定化なき発散は瓦解へと至る。
詩作とは「鎖につながれて踊ることである」 同p.83
というニーチェの引用は言い得て妙である。
基準となる何らかのハードウェアなしには、生命も芸術も
リズムも成立しないはずだ。
「何かを同じとみなす」ときの基準は、通信を成立させることで
集団を形成し、逆に集団が存続することで基準も維持される。
集団と基準は常にセットであり、クラーゲスが原住民の拍子を
理解できないのは、クラーゲスがその集団に属していないため
だと思われる。
原住民の拍子はクラーゲスをはじめとする西洋人にとって複雑な
ものだと述べられているが、それは集団の大きさを反映したもの
だろうか。
集団が巨大になればなるほど、最大公約数的に拍子は単純化して
いくと言えるだろうか。
最後の展望のところで、
リズムの「喜び」は何に基づくのか。
同p.93
という問いが立てられる。
それは、「何かを同じとみなす」基準があることで、
何かしらの一致がありつつ、それが完全には説明されない
ためだと思われるが、そのような説明を付けてしまった
瞬間に、「喜び」は色褪せていく。
長々と述べたことも、すべては一つの理由付けでしかなく、
そこにとどまらないでいることが、意識をもつ人間である
はずだが、そう言い切ってしまうことがまた特定の理由付け
への執着をもたらすようで、中々に難しい。
理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。
それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化 されることを避けたいためであろう。
…という説明すら、されるのを嫌うだろう。
An At a NOA 2016-11-25 “説明”