遊びと人間
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ロジェ・カイヨワ「遊びと人間」を読んだ。
カイヨワが挙げる、
- 自由な活動
- 隔離された活動
- 未確定の活動
- 非生産的活動
- 規則のある活動
- 虚構の活動
という遊びの六つの定義のうち、2(隔離)と5(規則)は遊びが
一つの独立した秩序であることを意味している。
3(未確定)、4(非生産的)、6(虚構)は、「確定」、「生産的」、
「事実」が何であるかを決める判断基準が存在することを
意味し、その判断基準は「まじめ」と呼ぶべきものである。
そしておそらく、「まじめ」の判断基準に対して、代替となる
判断基準が設定できることが、1(自由)という特徴をもたらす。
- アゴン(競争)
- アレア(運)
- ミミクリ(模擬)
- イリンクス(眩暈)
という四つの分類も、日常生活、規則、既存、正常といった
「まじめ」の判断基準に対して、代替となる判断基準の設定の
仕方に応じたものだと言える。
遊びとは、固定化による壊死から逃れようとする運動であり、
自らも秩序であることによって発散による瓦解を防ぐ。
それはアンリ・ベルクソンが論じた「笑い」にも通ずる、
きわめて生命的な振る舞いである。
集団が、固定化と発散の間でバランスを取ろうとする衝動 An At a NOA 2016-11-25 “笑い”
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化 という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
遊びが台本、楽譜、習慣、規則、定石という「まじめ」になり、
これらかつて遊びだったものからの逸脱がまた遊びとなる。
カイヨワも言うように、遊びとまじめのどちらが先かはあまり
意味のない問題であり、「まじめ」があるからこそ遊ぶことが
できると同時に、あらゆる「まじめ」はかつては遊びだった。
遊びと聖なるものについて、ホイジンガが両者を同一視した
ことをカイヨワは咎めるが、遊びが日常生活に対して、聖なる
ものが俗なるものに対して別の判断基準となるという点では
両者は同じであるし、聖なるものを信仰する人間にとっては
それが既に「まじめ」であるという点では両者は正反対である。
それは結局、「まじめ」の判断基準を何とするかだけであって、
カイヨワ自身が浸っていた西洋近代の「まじめ」を遊びと見る
ような視点も想像できるだろう。
より完全な遊びの定義や分類を目指すことや、ミミクリと
イリンクスからアゴンとアレアに至るのが進歩であると述べる
ことは、とても近代人らしい態度だと思うが、遊びの遊びたる
所以を考えれば、近代的に大きな物語を設定しようとすること
自体が、遊びの余地をなくしてしまう。
遊びは、捉えようとしても捉えきれず、囚われないものであり、
遊ぶことしかできないものとして、遊びについての一つ一つの
思考が、それぞれ遊びであるのがよいように思う。
遊びは擬であり、その始まりもまた擬かれている。
「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。
兼好「徒然草」第二百四十三段