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松岡正剛「擬」を読んだ。

松岡正剛は抽象のことを「編集」と呼ぶが、書名の 「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。

ひとつひとつの擬は何らかの基準をもった模倣であり、 「つもり」と「ほんと」がないまぜになっている。
それはそもそも一つの見方でしかないから大いに 「つもり」でもあるし、それが共有されることで 大いに「ほんと」にもなれる。
「ほんと」というものは、ある擬が一時的にでも共有 されている状態のことを言うのである。

だからこそ、擬くことによってしか見えてこない「世」 なるものは、別様な可能性を秘めたcontingentなもので あってよく、「あべこべ」で「ちぐはぐ」なものとして 「かわるがわる」擬くのが面白い。
逆に、それをconsistentなものとするために、ある基準、 ある擬だけを共有しようとするのはひどくつまらない。

一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、 アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、 擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる 壊死の兆候である一方で、新しい擬をもたらすマレビトは、 発散の担い手、瓦解の兆候となる。
壊死と瓦解のバランスは、擬が「つもり」と「ほんと」の いずれでもなく、いずれでもあることで成り立っている。

個々の擬がもつ基準は、その擬にとっての道理となるが、 複数の擬が重なり合ったときに、道理までは必ずしも 一致せず、道理の差が生まれると、一方から見た他方の 道理は義理となる。
「借り」や「負い目」によって義理が発生するのは、 新しい擬があてがわれるからなのだろう。
義理が軽んじられていくのは、擬の一元化のためだろうか。
擬き方が一つになったディストピアにおいては、 義理は存在しなくなるだろうか。

この本自体、列挙するのも骨が折れるほどの多数の先人に よる擬を、松岡正剛が擬いたものである。
専門分化という近代西洋の擬をまたぐ、圧倒的な読書量に 支えられたその編集力、擬きぶりにはただただ感服するが、 松岡正剛の擬をただ単になぞるだけでは主題に反する。
日々「好奇心をもち」、「相手と親しくなり」ながら、 マレビトたらんとして擬き続けるべし。