圏論
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ここ数日は圏論の本を読んでいる。
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」 清水義夫「圏論による論理学」 スティーヴ・アウディ「圏論」
「比喩=関手」という理解 西郷甲矢人「すべての人に矢印を―圏論と教育をめぐる冒険」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第12章 p.205
ということを考えると、圏論に関するあらゆる説明が
関手であり、いろいろな本の中で少しずつ違う表現で
説明されている圏論を理解すること自体が、圏論的
なんだろうなと思う。
身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという
抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が
意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から
別の関手による理解へと、自然変換によって移行できる
ことなのだろうと思う。
物理的身体による意味付けの関手圏では、ユクスキュルの
環世界のように、元来備えているセンサの特性によって
動物や機械が比較的孤立しているのに対し、心理的身体に
よる理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が
固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が
比較的多い、とか。
さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノ
であるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。
余等化子Qとq: B→Qは、z: B→Zのうちの「常識」とか
「慣習」とかに当たる部分で、uq=zという分解は、
そういう透明にできる部分を括り出したものなのでは
ないかと思う。
あらゆる対f(a)=g(a)を“同一視”することによって、余等化子 q: B→QはBを“潰したもの”と考えることができる。
スティーヴ・アウディ「圏論」p.76
余極限とは、モノを集めて貼り合わせて対象を作る 圏論的構成のことです。
春名太一「圏論と生物のネットワーク」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第15章 p.257
その双対である等化子Eとe: E→Aは、
問題の本質を定義として抽出したもの。定義によって 「これが本質だ!」と看破することで、問題自身が ほとんどそれで解けてしまう [座談会]「「数学本流」にはなりたくない―今出川不純集会、三たび」
圏論の歩き方委員会編「圏論の歩き方」第16章 p.275
という「良い定義」に通ずるものがあるように思う。
等化子がデジューレ・スタンダードだとすれば、
余等化子はデファクト・スタンダード?
なんだか思いつきで適当なことを書いているように思うが、
圏論の説明の関手圏を覗くのは楽しいので、いろいろな
説明を読んでみようと思う。