不気味な笑い
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ジャン=リュック・ジリボン「不気味な笑い」を読んだ。
何らかの情報が繰り返し入力されることで、自然と一つの
判断基準が浮かび上がる。
その過程は、「者」に対する「家」の流儀の現れのように、
ディープラーニングと同じである。
集団は、判断基準を共有することで維持されると同時に、
その判断基準は集団で共有されることで維持される。
判断基準とはベイトソンが枠として分析したものであり、
自然と浮かび上がった判断基準と枠のずれが小さければ、
枠は参照軸として維持されたまま、反復、逆転、系列の
交錯によって、笑いが生じる。
「集団が、固定化と発散の間でバランスを取ろうとする衝動」
An At a NOA 2016-11-25 “笑い”
一方で、両者のずれが大きい場合には、二つの異なる
判断基準による距離感の差が、不気味さを生み出す。
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味”
そのとき、自然と浮かび上がった判断基準の裏で、
フロイトが抑圧と呼ぶ判断基準=枠は消えかけている。
一見別のものにみえる「笑い」と「不気味なもの」を、
手短ではあるが鋭い切り口で分析した見事な内容だった。
平凡社ライブラリーの「笑い/不気味なもの」に含まれて
いるのだが、ベルクソンとフロイトの元論文と合わせて
読めるのもよい。
p.s.
小林賢太郎が好きなのは、「不気味な笑い」に通ずる
ものがあるからなのかもしれない。