「百学連環」を読む
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山本貴光「「百学連環」を読む」を読んだ。
西欧人が自然を読んで西欧学術をなし、
西周が西欧学術を読んで「百学連環」をなし、
山本貴光が「百学連環」を読んで「「百学連環」を読む」をなし、
私が「「百学連環」を読む」を読んでこの文章をなす。
受け取った抽象から、それが想定していた具象を再構成し、
自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、
新たに抽象する。
この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
文學なくして眞の學術となることなし。
西周「百學連環」第二一段一一〜一五文
というのは、抽象から具象を再構成する能力である
リテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。
言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、
西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の
抽象能力は抜群であると思う。
学術の分類について、普通commonと殊別particularの
違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの
違いは判断基準の固定度の差ではないかと思う。
時代、場所、集団によって判断基準が異なることで、
普通と殊別、心理と物理の境界は変化するはずであり、
むしろその境界こそ、判断基準の個性にあたるもの
だと言える。
唯物論とは、物理が幅を利かせ、判断基準が完全に
固定化した世界観である。
それを採用すれば、あらゆることがわかるものとして
捉えられるようになるかもしれないが、ソフトウェア
のないハードウェアは脆弱である。
その逆もまた然りだ。
心理的な部分がなければ、集団は固定化し、
物理的な部分がなければ、集団は発散する。
心理と物理の均衡が取れていなければ、どのような学術も、
壊死と瓦解の間で存続することはできないように思われる。