HALF-REAL


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イェスパー・ユール「HALF-REAL」を読んだ。

あるデータを、何らかの判断基準に基づいて 同一視すると、データが捨象されてサイズが 小さくなるとともに、データに生じた偏りが 意味を担うようになる。
抽象過程における情報の捨象と意味の形成は 表裏一体であり、減算モデルと除算モデルの 双対関係に対応する。

ルールとフィクションの関係も同じであり、 両者の相互作用というのは、一つの抽象過程を 両方から見ることができることを言ったもの なのではないかと思う。
ゲームというのは、判断基準が比較的安定的に 変化する抽象過程であり、一つの価値体系が 維持されるプロセスの一種とみなせる。

古典的ゲームでは、ボールや駒、ボードなどの 物体に頼ることで判断基準の安定化を図るが、 不確定性を有する人間だけがプレイヤーとなる ことがほとんどであるため、判断基準の急激な 変化に伴う価値体系の崩壊=ゲームオーバーの 可能性と常に隣り合わせである。
それに対し、ビデオゲームでは、リアルタイムに プレイヤーを仮想化することで、より高度に 判断基準を安定化できるようになったことが、 時間や空間をはじめとするあらゆるものを刷新する 複雑な価値体系を維持する上で重要になったのでは ないかと思う。

一つの価値体系の維持という意味では、いわゆる 現実Realも同じである。
大文字の現実とゲームの間に区別が設けられるのは、 前者が強烈なハードウェアに強く依存しており、 通信可能な範囲内にいるプレイヤーのほとんどが そのことを忘れられるためである。
通信範囲が拡がり、異文化、異人種、異種、異星、 といった存在に触れ、忘れていた判断基準に気づか される度に、大文字の現実は変化してきたはずだ。
パラダイムシフトである。

逆に、プレイヤーが少数のうちはImaginaryなもの であるゲームも、十分多数のプレイヤーが参加する ことでRealに漸近する。
人間の意識が一つであることで機能するように、 現実もまた一つであることが求められるために、 当初はImaginaryであったゲームが現実に近づき 過ぎると、両者の間には軋轢が生じる。
キリスト教、貨幣経済、虚数、相対性理論のような 新しい価値体系が生じる度に、かつてゲームだった ものが現実の一部をなすようになる。
Real partとImaginary partに明確に分けられるうちは、 ゲームはゲームのままであり、それが峻別できない ほどに判断基準が変化したとき、現実と呼ばれる ようになるのだろう。
ポケモンGoのようなARもいずれそうなるだろうか。

現実が変化しなくなることは、現実が突如として ゲームオーバーするのと同じくらい脅威である。
人工知能の発達を待たずとも、現実は知らぬ間に ビデオゲーム化しつつある。
判断基準が過度に安定化した社会は、ユートピア =ディストピアである。