空気人形


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是枝裕和監督の「空気人形」を観た。

かたちの点では動物よりも人間に近いけれど、生命の点では動物のほうが人間に近い。そんな人形の中でも、人体というセンサ同士のすり合わせであるセックスに使用されるラブドールは、スケールやディテールなど、あらゆる点におけるかたちの再現性が追求され、その究極は「未来のイヴ」のハダリーに至る。

しかし、空気人形がハダリーと異なるのは、かたちが確固たるものではなく、それを維持するのに空気が要るところだ。そして、空気が動き、息吹となることで生命が宿る。空気がかたちをつくるとすれば、息吹はいのちをつくっている。息吹breath, exhalationは、ロウソクを吹き消す息、息を吹き込むセックス、風鈴、タンポポの綿毛だけでなく、100円高いシャンプーの匂い、子供時代を彷彿とさせる潮の香り、バイクの後部座席から首元を嗅ぐ行為などを通して、語源である嗅覚smell, odorへのこだわりにもつながる。息吹の流れは次第に滞り、いつか止まって死に至る。それがエントロピーの増大、つまり年を取るということだ。それに抗うように、自転車のタイヤにも、小顔矯正器にも、のぞみの身体にも、空気が流し込まれる。テッド・チャンが「息吹」で喝破したように、ただエネルギーがあれば生命になるのではない。エネルギーの流れこそが生命というプロセスなのである。

容器の中に封じられた球体。
その球体が動かされ、カランコロンと音がなる。
人間も人形も、案外そんなものなのかもしれないが、ハードウェアの違いは距離感を生み出す。玉子、目玉、睾丸というバタイユの「眼球譚」的球体幻想に支えられたドロドロな人間と、きれいなビー玉入りのラムネの瓶のように固く透明で空っぽな人形。燃えるゴミとなった純一を不気味に感じ、燃えないゴミとなったのぞみを貝殻のようにきれいだと思う。燃えるゴミと燃えないゴミの間には、残念ながら完全な互換性は存在しない。それでも、わずかな通信可能性communicabilityをきっかけに空気が動いて息吹になったものが、つまりは心なのだろう。