頭の良し悪し


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ある状況のデータを基にして、そこからどのような状況に変化し得るかということを、妥当性reasonabilityと併せて見積もれるというのが、「頭が良い」ということの個人的なイメージだ。もちろんそれが蓋然性possibilityと一致するのが望ましいが、多くの状況は非決定的であり、蓋然性は一定しないことがほとんどであるように思う。

「頭が悪い」が「頭が良い」の反対だとすれば、(1)状況変化を考えないこと、(2)妥当性を見積もらないこと、(3)妥当性の見積もりが外れていること、はいずれも「頭が悪い」に該当する。
(1)はぼーっとしているか頭が固いかのいずれかだ。それはそれでユートピア=ディストピア的な幸せに浸ることができているとも言える。
(2)はあらゆることについて等しく心配してしまう優柔不断な暇人だ。判断を下すまでに無限の時間を要するという問題以前に、偏りのない選択肢というのは情報的には無価値だと言ってよい。
(3)の評価は難しい。妥当性の与え方は一意的には定まらないため、結局のところ、自分が想定する見積もりと近い妥当性を与えるものを「頭が良い」と感じているに過ぎない。突飛な発想に対して、状況が変化してから後出しで「頭が良い」と言うことは簡単だが、事前に「頭の良さ」を指摘することの難しさたるや。だからこそ「馬鹿と天才は紙一重」なんてことが言われるのだろう。ここにも「頭の良し悪し」がある。

ちなみに、個人的には、すこぶる肯定的に「頭が悪い」を用いることがある。それは、妥当性の見積もりが強い思いに支えられているが故に、ある特定の選択肢だけが卓越して、他の選択肢が見えなくなっているが、周囲もその選択に合意している状況においてだ。大抵は酒を飲み始めるときである。