中国絵画史


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中国絵画史に興味がわき、宮崎法子「花鳥・山水画を読み解く」、宇佐美文理「中国絵画入門」を読みながら、NHK出版の「故宮博物院」シリーズを眺めている。

「花鳥・山水画を読み解く」は、中国の思想・文化的な背景を交えながら絵画の意味を読み解くものになっており、文化人類学的な興味がそそられる。「中国絵画入門」は、気と形という、ルネ・ユイグ「かたちと力」にもつながりそうな見方がよい。

山水画と雅俗の区別。
雅俗の区別というのは、つまりエリートを決めるということだ(eliteの語源は「選ばれた者」である)。科挙によって、氏ではなく育ちによって出世できるようになった結果、育ちの優劣を峻別するために生じた雅俗の区別が山水画の発展につながるという説明は非常に明解である。山水画は書と共通点が多いが、西洋におけるラテン語の使用と同じように、権威は書き言葉を支配することによって保たれる。西洋ではその後、ダンテ、ルター、デカルトらによって次第に俗語が書かれるようになりつつ、三十年戦争を経て、権威は教会から国家へと移っていった。書き言葉の解放と権威の失墜という観点からすると、白話小説の普及や白話運動といった言文一致の流れも、山水画の衰退と関連しているのではないかと思う。

花鳥画と同音による吉祥シンボル。
発音が同じであることによって吉祥を象徴するという、耳を介した抽象化は、表語文字ならではである。山水画が書き言葉とつながっているのに対し、花鳥画は話し言葉とつながっている。これはつまり、エクリチュールとパロールの対比である。20世紀の西洋哲学で展開された言語の問題は、山水画と花鳥画の関係にも適用することができるだろうか。書き言葉があからさまに権威を支えるのに対し、話し言葉は知らぬ間に特定の価値観を埋め込む。識字率の推移と画の様式の変化を対応付けてみるのも面白いように思う。

気の流れ。
書には筆順があるが、山水画にも筆順はあるのだろうか。筆順と気の流れは対応していてもおかしくない。李郭派や浙派のように気の流れを重視した流派と、元末四大家や呉派のようにそうでもない流派では、筆順の違いがどのくらいあるのだろう(草書と楷書くらい違う?)。