意識に関する考察
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昨今流行りのディープラーニングでは、認識には理由付けが 不要であることがはっきりと示されているように思われる。
誰かの顔を見てその人だと認識するときも、 碁の名人が次の一手を直感するときも、 自然にその判断を下している。
無意識な判断というのは、理由付けによるものではなく、 大量のデータとそれに対する評価を基に構築された 評価機関を使った出力である。
判断が速くなるケースがあるために理由付けを行うようになったのだろうか。
むしろ、評価機関毎の誤差を吸収することを目的とした評価結果の修正のために、 特定の場合の評価結果を恣意的に変更する操作が理由付けであり、 それを導入した結果が意識なのかもしれない。
左右の別、虹の色数なんかはわかりやすい修正だ。
子どもにはなぜなぜ期と呼ばれる時期があるが、このとき無意識の評価機関は 既存の世界に併せて評価結果のキャリブレーションをすることで、 意識を形成しているのかもしれない。
そうだとすれば、理由を問い、設定する行為自体が人間の意識の源である。
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
そういう意味では、理由付け→∞の極限である痴呆と、理由付け→0の極限である
無意識というのは真反対の現象である。
痴呆から逃れるには理由付けによる最適化を免れなければならない一方で、
理由付け抜きには意識が芽生えない。
そんな微妙なバランスの上に、一時的に成立している意識を楽しもうではないか。