早すぎる最適化


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このツイートが何事かと思ったら、認知症老人が徘徊の末に 鉄道事故で亡くなった件について、家族の責任を問わないという 最高裁判決が出たようだ。
日刊スポーツの記事

先ほどの自動運転車の事故の責任と似た構図を感じる。
認知症が意識の最適化の果てに意識が消滅した状態に近いとしたら、 自動運転車が独りでに暴走したときに起こした事故に対して、 所有者に責任があるか、という問と構造的には同じだ。

仕事をしなくなると、必然的に入力される情報は少なくなる。
外出をする機会も減っていくとその傾向はさらに顕著になる。
毎日会うのは同じ人物、見るものも家の中にあるものだけ、 テレビと新聞だけが唯一の日々変化する情報源、という状況は、 退職後の人間としてはごく一般的だろう。
身の回りのことも多くは自動化され、ルーチン化しやすい作業ばかりだ。
こういった状況では、最適化がかけやすい。

労力を減らし、人間に必要とされるエネルギを最小化しようというのが 工業製品では概ね正義になる。
何をするにもボタンを押すのみ、という状況では無意識のうちに行動可能であり、 気がついたらお湯が沸いていてトーストも焼けている、なんていうことは 現代でも有り得る。
そういう点では、音声による入力というのはボタンを押すよりも 意識を必要とするので、発声しなければならないという多少の不便さはあるものの、 意識を維持する上では安全な入力方式なのかもしれない。
(このNAISTのドクタの書いた無音声認識の話は面白そうだが、どの程度まで 進んでいるんだろう)

これからも技術の発展とともに様々な労力が減っていくだろう。
しかし、人工知能による仕事の奪取自体が問題なのではなく、 労力が減り、仕事もせずに済み、あらゆることが自動化された結果、 生産年齢の世代を含む全世代の人間が、現代で言うところの退職後の人間レベルに 生活の最適化がかけられるようになることで、認知症に近い状態に至る人間が 多発する可能性があることの方がよっぽど問題である。

いや、これが問題だと思えるのは意識をもっていることをよい状態として 評価しているからであり、有意識が疾患として扱われる状態が異常だとも言い切れない。
それは、自動運転が普及した世界で、人間が運転することが違法性を帯びる可能性が ある、という話と同じだ。
ここまでくると、人工知能に意識を実装できるか、というのは愚かな問となり、 むしろ意識という不確定要素を如何に排除するかという方が重要な問になる。

伊藤計劃のハーモニーではあるボタンを押すことで、全ての人間から同時に 意識を奪い取った。
有り得る現実としては、技術の発達により、次第に意識が不要になるという未来だ。
外界から情報を受け取り、圧縮することで認識し、意味を割り当て、それまでの知識を 基に外挿し、自らの機能を持続させるために次にとるべき行動を決定する機械。
人工知能はそこまで行けばもはや人間を超えるだろう。
あとは人間側が発達し、意識を捨て去ることでそこに追いつくだけだ。

この未来を受け入れたくないのであれば、常に新しい情報を求め、 これまでに経験していない判断をする機会を増やしていく以外にない。
意味のない、余計なことは、むしろどんどんやるべきなのだ。
マグロは泳ぐことを止めたら死んでしまうのである。